明治学院大学白金台チャペル&「信仰と建築の冒険」

明治学院大学白金台チャペル



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1916年(大正5年)に建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(米国)の設計によって建てられた、英国ゴシック様式の礼拝堂です。
堂内の白い壁と重厚な梁のコントラストが美しく、左窓の十字架のステンドグラスからは黄色の柔らかな光が注ぎ込まれます。完成当初は長方形でしたが、学生数の増加に合わせ1931年(昭和6年)に両袖の拡張工事を行い、上空から見ると十字架の形をした現在の姿になりました。2009年には、日本では唯一のバロック様式のパイプオルガンが入りました。
高校と大学の礼拝のほか、式典やコンサート、結婚式にも使用されています。東京都港区の「有形文化財」、「景観上重要な歴史的建造物」に指定されています。
このチャペルで1919年(大正8年)、子爵令嬢の一柳満喜子とヴォーリズが結婚式を挙げた。ヴォーリズ38歳、満喜子35歳であった。

ヴォーリズについては何度も書いているがヴォーリズ一人で大きな仕事ができたわけではなく、彼のもとには、彼の教え子吉田悦蔵氏をはじめとする良き仲間たちが、衛星のように集まっていた。

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特に吉田悦蔵とその母柳子、悦蔵氏の妻清野は、それぞれが主人公になれるほど素晴らしい人格の持ち主で「ヴォーリズの物語」を美しく彩っている。

吉田悦蔵はヴォーリズの生徒だった。(写真では右から4番目)
ヴォーリズが学校をクビになると、自分の母からの仕送りを半分ヴォーリズに・・と申し出た生徒であり、ヴォーリズの片腕となって、亡くなるまで彼を支えた。

母柳子(写真中央)は、熱心な仏教徒であったが、悦蔵氏の信じているキリスト教を信じるようになって、50歳近い年齢でありながら、聖書と英語の勉強を始め、自転車で伝道にもいくような熱心な女性であった。紹介された渡辺清野にほれ込み、息子の嫁にと水戸から近江八幡に彼女を呼び寄せた。

清野は悦蔵氏より2歳年上。それにこだわって彼女が辞退すると、
悦蔵は「自分の母も父より1歳年上だった。だから、父で苦労しても自分を一人前に育ててくれた。自分は母のようにしっかりした女性の相談相手がほしい。年の差など意に介することではない」と結婚を申し込んだ。
清野は東北なまりがあって苦労したが、悦蔵はいつも清野をかばい、励まし関西の言葉になれるように手助けした。
悦蔵氏も人格者で、クリスチャン嫌い?の男性が伝道している悦蔵にケンカをしかけようと待ち構えていたが、悦蔵の人格にほれ込み、逆にクリスチャンとなったというエピソードも残っている。

清野は水戸の宣教師ビンフォード夫妻の下で仕事をしていたので、英語はもちろん、家事や料理の能力も高く、家庭にあっては良き妻、良き母であり、後に近江家政塾を始めてからは、生徒たちからも理想の夫人として憧れられた。

魅力ある人物たちが集まって共に仕事をした時期が、ヴォーリズの仕事として近江ミッションが大きく発展した時期となっている。

この度、その吉田悦蔵氏の孫である吉田与志也氏が、膨大な祖父の資料やヴォーリズが海外に出した雑誌を翻訳し、それらの資料を駆使して、本を出版された。読むのが楽しみです。
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