悲運の洋画家 「青木繁展」を見にいきました。

青木繁と言えば明治時代の洋画家の一人で、教科書にも載っていた「海の幸」が有名です。
 
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彼の作品は、こちらも好きです。
我が家にもある「わだつみのいろこの宮」
この作品が見たくて、京都国立近代美術館青木繁展に出かけました。
   http://rootakashi.cocolog-nifty.com/blog/images/2011/07/09/6.jpgお目当てのこの絵は、25歳の作品。…とは言え、構図と言い、色遣いと言い…ほれぼれするような美しさ
残念だったのは、もう少し明るい光の中で見たかった…ということくらいでした。

この絵は、学生時代に古事記や神話を読み、その世界に興味を持った青木繁が、そこから題材を選び、想像を膨らませて描いたものということです。
 
彼の作品の中では非常に完成度の高い作品だそうです。
でも、東京勧業展では、3等という不運な結果に終わりました。
こういう芸術の世界にも、お金や権力、口利きはあったようです。

自信作であっただけに、彼の落胆は大きく…「方寸」という美術雑誌に
…資格やお金がなければ画家は認められないのか?と、不公平な選考のあり方に批判をしています。(文字がよく読めませんでした)
たしかに、ネットで1等の作品を見ましたが・・・私ならこちらを選びます。
 
この後、結果的に、彼は画壇から遠ざかってしまいます。
 
青木繁は28歳の若さで亡くなりました。これも知らなかっただけに私には衝撃的でした。

豊かな才能を持ちながら、認められないうちに亡くなってしまう…あるいは自己破滅してしまう…芸術家にありがちなタイプに思われます。
 
 
彼の場合も、才能に恵まれながら、貧しく、世間にも認められなかった不運がありました。でも、その才能は、本格的に絵を描き始めてから、絵画の中に全て投入されていたように思えます・・・。短い生涯にこれだけの大作が描けたのですから・・・。
 
青木繁は、友人達に宛ててたくさんの書簡を残しています。
彼は、友人を大切にし、また、良い友人たちにも恵まれたようです。
青木繁の名前も、若くして逝った彼の才能を惜しむ友人たちによる遺作展でその名前を世に知られることになります。
 
夏目漱石の「それから」にも、この作品が登場。
・・・この絵を何度も仰ぎ見て、いわゆる大家の手になったものでこれと同じ程度の品位を有(も)つべきものを見たことがない・・と言うようなことを言わせています。
 
「わだつみのいろこの宮」(明治40年 1907)
古事記」上巻の「綿津見の宮の物語」を題材としており、兄の海幸彦から借用した釣り針を紛失した弟の山幸彦が海に入り、海底の魚鱗(いろこ)のごとき宮殿に至り、豊玉毘売(とよたまひめ) と遭遇する場面を劇的に描いたものである。もうひとつの代表作「海の幸」がかなり極端な横長の画面であったのに対して、ここではかなり極端な縦長の画面をもちい、そのなかにやはり画面一杯に3人の人物を配置している。女性の顔やその着衣、プロポーションなどについては、イギリス・ヴィクトリア時代の絵画の影響があると言われている。
 
 
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この度の展覧会の作品も、早く亡くなったことで、大作はさほど残されていません。
 
・で、彼はこれ以上の絵は描けなかったのでは?とも言われています。
 
でも、代表作はもちろん素晴らしいのですが、絶筆となった最後の作品に足が止まりました。
 
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絶筆…というのにこの色彩の明るさは?
死期を悟った彼の最後の作品。
渾身の一枚を残したいという希望、好きだった海への思い…そんなものが描き込まれているような気がしました。
海への思いを感じる他の作品
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子どものかわいらしさを描いたこんな作品もありました。
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参考
夏目漱石が「それから」の作品中で、主人公がこの絵(わだつみのいろこの宮)を展覧会で見て深く感動するなど、多くの人々を魅了した。
しかし、この画壇はこの作品を黙殺した。一等賞7人、二等賞6人、三等賞10人で、「わだつみのいろこの宮」は、その三等賞の中の1つに過ぎなかった。
青木は自信があっただけに、怒りかつ絶望した。
最初から貧しい画家であった彼は、この作品を最後の展覧会出品作として故郷の久留米へ帰ったが、待ち受けていたのは窮乏その極にある家族であった。彼は生活のために悪戦線苦闘したが、友人坂本繁二郎が評したように、結局彼の一生は「非現実的な芸術の空気をもって現実と戦った悪戦丈(だけ)であった」
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎
 
 
青木繁 Google 検索 こちらで、彼の絵がたくさん見られます。
繁は今の福岡県久留米市に、旧有馬藩士である青木廉吾の長男として生まれた。
繁は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学校の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾・不同舎に入って主宰者の小山正太郎に師事した。肺結核のため、麻布中学を中退。1900年明治33年)、東京美術学校(のちの東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた友人・坂本らと群馬県妙義山信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、繁はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた繁の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年(明治37年)夏、東京美術学校を卒業したばかりの繁は、坂本や画塾不同舎の生徒で繁の恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良(めら)に滞在した。『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルは福田たねだとされている。この前後が繁の短い絶頂期であった。以後の繁は展覧会への入選もかなわず、私生活にも恵まれず放浪のうちに短い生涯を終えたのである。
 
 
 
 
 
やはり一番好きな絵は「わだつみのいろこのの宮」。
そうそう…我が家にある「わだつみのいろこの宮」です!
 
 
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 追記
 
没後100年「青木繁展」は、京都から場所を移して、現在は東京のブリヂストン美術館
7月17日から9月4日まで開催しています。