たねまきジャーナル 8月13日堺大空襲火の海にとりのこされた少女

8/13(月)

 永岡です。
オリンピックとお盆が重なり、社会問題には関心ない人が増えているが、それを読んで成立させたのではと水野さん、平野さん言われて、筋書きを作った勝事務次官も退任なのです。   

 原発のニュース、政府は原発依存度について、国民の意見を集約する専門家会議を作ります。調査は昨日終わり、お盆明けに専門家による分析なのですが、メンバーは未定で、8月に意見集約(8万件寄せられた)、政府は結果を公表する時に、国民の意見は依存度0%支持が多い模様です。

 浜岡県民投票は、有効署名が必要数(6.2万)を16万以上と大きく上回る(2.6倍)結果です。県民投票静岡が知事に条例を求めますが、川勝知事、原発に○か×かには否定的なのです。では、他にどんな選択肢があるのか、なのです。平野さん、国民の原発への民意は、危機感の表れなのに、それを生かす機能が政治になく、官邸デモに人が集まるのだと言われました。
大阪も東京も投票できる署名が集まったのに橋下氏、石原氏が否定し、議員も否定する。東京は国の政策だからと言い、そうではなく、集まった人の声を投票で聞く意見をつけて議会に付けないと、封殺する声はおかしい。浜岡は危険で、再稼動はあり得ない。川勝氏、条件付の稼動を言っているものの、川勝氏、事故直後は厳しいことを言っても、地元財界に押されて再稼動を容認しており、静岡はお茶の産地で、放射能が飛んできており、切実な農家の声があり、再稼動で事故になったら大変と思っての16万署名なのです。

 橋下氏、国会議員5人と会談し、松井氏も同席。維新の会は今では政党ではなく、重複立候補が出来ないのが、企業献金ももらえ、政見放送も出来るので、維新合流を話したのでは、とのことで、平野さん、互いの政治的な背景を見て、政策的な整合性を取っているのかと言われました。初めに数合わせありき、解散風があり、枠組みを作りたいとなったのです。維新の政策に国家的なものもあり、民主党と合わないはずなのに、松野氏、反執行部の人が維新に接近し、具体的な中身なしで、有権者そっちのけと言われました。   

 今日の特集、堺空襲の悲惨さ、67年前、敗戦直前に5度の空襲で大被害を受けました。
被害者の浜野絹子さんと、新聞うずみ火の代表、矢野宏さんのお話がありました。
平野さんも堺の空襲のことはご存知なかったのです。火の海に取り残された人が堺に大勢おられ、7月の空襲がひどかったのです。

矢野さん、堺空襲は大阪空襲の取材で、第6次大阪空襲が堺であり、大阪に8回の大空襲(B29が100機以上)あり、その6回目、7月10日が堺なのです。100機未満は大空襲ではないのです。

 浜野さん、母親と弟を亡くされたのです。浜野さん6歳、小学校に上がる前、4歳の弟は空襲で、2歳の弟は栄養失調で亡くなったのです。

 全体像、第6次空襲は7月10日の午前1時半から行われ、前日は和歌山が空襲に会い、距離は50km、南が真っ赤であり、和歌山がやられたら堺はないと思い、警戒警報も解除されたところにB29が116機来たのです。被害は1.5時間で779トンの焼夷弾が落とされ、あられのごとく落とされ、海岸に近い旧市街地が襲われて(南海の堺駅付近)、繁華街がやられ、軍需工場ではなく、一般市民への無差別爆撃で、国際法で禁止されていた(軍事施設以外はダメなのに)のにやられたのです。
 
 無差別攻撃、絨毯爆撃で、堺で1860人亡くなり、負傷者を入れたらもっとたくさん亡くなられ、18万人のうち7万人が家を亡くされたのです。

 この堺空襲、その後生活が大変で、思い出したくないので喋らず、今になり体験を聞いてと、60年たって語り始めた、それを矢野さんが取材され、7月10日の凄惨な場面、阪堺線龍神駅、高架下のガードに逃れてきた人が集まり、乗客もそこへ来て、しかし炎に襲われ(風が煽られて)300人以上亡くなられたのです。
 平野さん、母親が高松で、逃げる場所がない。焼夷弾は焼き尽くすので油が飛び散り、焼け野原を作るための爆弾だと言われました。

 この激しかった場所、毎月10日に供養があり、堺の人にとっては9日が供養の日なのです。その取材テープ、45年前に掘ったら骨が出てきた、堺は生きているほうが不思議、地獄絵図、生きているものの使命として供養しているという声、鎮魂のために供養しているのです。こういう声を矢野さん聞かれました。
 浜野さん、母親は子供を助けたくて、浜野さんを玄関の外に出して鍵をかけて、家に入れず、母親は家にいたら焼かれると知り、さらに母親は病気で逃げる体力がなく、子供二人を負ぶって逃げる体力はない。父親は戦争に行きいない。浜野さんわけが分からず、小学校に逃げるように言われており、弟さんは部屋に母と一緒にいて、この子は一人で逃げられないと思ったのです。母より逃げてと言われて、意味は理解できず、しかし「火の玉が追っかけて」きて、やむを得ず逃げたのです。近所は焼け野原で、何軒か家は残り、焼夷弾のたびに伏したり、何とか火の玉から逃れようとして、みんな疎開して隣近所いない。
 当時の堺は、ほとんど家がなくなり、食料は配給でなし。B29の来る恐れは、5回も空襲があり、間隔が狭まり、以前の空襲は覚えていない(防空壕に逃げたことくらい)。ここまでの空襲とは知らなかったのです。
 浜野さん、リュックを背負い(預金通帳他が入っている)小学校に逃げて、何とかたどり着き、地面を這い蹲り(焼夷弾を避けて)、立って走るものではないのです。小学校、怪我をしている人がたくさんいるのに薬も医者もなく、みんなわめいて聞こえない。浜野さん踏み潰されるのかと思ったのです。

 小学校から出た町、大叔父が尼崎にいて、家に戻り母親の遺体を見つけて、人間バーベキュー、皮膚が焼け爛れていた。歯の形で母親と分かるほど、全身真っ黒であり、声を出したくても、日常とかけ離れ、思考がストップし、悲しいも苦しいもなくなるのです。母を荼毘に付して、鹿児島へ行ったのです。4歳の弟は、何も残っていない!のです。見つけられなかったのです。空に銀色の紙がひらひらして、収束団の鉄砲のリボンが爆発すると電線に絡まり、不気味な雰囲気であったのです。赤いのか黒いのか、分からないのです。生身の空気でない、銀色のリボンが異常に舞っていたのです。

 今、この日本、大阪で、67年も経てば戦争がないように発言できる場に行きたいと思い、機会があれば話しているのです。

 私も神戸空襲のことは聞いていましたが、浜野さんのお話に愕然となりました。リスナーより、地元にも戦争の痕跡がある、奈良の方で、高架下に銃撃の跡があるということで、また戦争のあったことを知らない世代もあるという声もありました。話す人も少なくなり、これを伝えるのが大切なのです。