NPO法人とよなか市民活動ネットきずな「アマタリシホコ」講演会
NPO法人とよなか市民活動ネットきずな
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豊中市民の意識の高さが伺えました。
ここには、こんなチラシも入っていました。
思わず手に取ってしまいました。こちらの案内は後ほど・・。
さて、この講演会は駅前にある市民活動情報サロンにて9月18日に行われました。
この本は古田史学に基づいた研究であり、今年88歳になられた古田武彦先生に捧げるという目的でも作られました。
前回ご紹介させていただいた本「阿毎阿多利思北孤」
本の執筆者が全員集まっての大下隆司さんの講演会です。
こんな事、学校では教わりませんでしたね。
聖徳太子はいなかった・・なんて。
でも、いろんな中国の歴史書との矛盾があるそうです。
ちなみに・・ネットで検索してみると・・・なんと続々こんな記事が出てきました。
史実についても、身の回りに溢れる情報についても、
一度疑ってみる姿勢は大事だと思います。
日本の歴史を組み立てているそうです。
ところが、日本の学者達は、「隋書」のことをこのように言います。
困ったものですね。矛盾があっても認めません。
さて、日本人のルーツは・・
私はこの本「阿毎阿多利思北孤」を読んで、古代史の門を叩きたくなりました。もちろん古田史学の門です。
今まで教わってきたことへの疑問に答えてくれる古田史学とは・・?
古田史学についてはこちらのサイトが充実しています
・・http://www.geocities.jp/pujo106blue/
(引用させていただきます・・)
(引用させていただきます・・)
古代史にはいろいろな疑問があります。
(* イト国は、三国志魏志東夷伝倭人で伊都国と書かれ、「世々王あり」と説明されているところである。(ナ国は奴国と表記されている)
この伊都国の何代か前の王が金印を得たと思われる。
このような見方は、「まぼろしの邪馬台国」で宮崎康平氏が提示している。イナ国で米作が広まったことから稲をイネと呼ぶとも説明されている。また、今は糸島半島であるが、糸島はれっきとした島であった。金印が発見された志賀島は、糸島と博多湾を挟んだ位置関係にある。)
三角縁神獣鏡にしても、そんなに大切なものなら、正倉院にあって良さそうなものですが、1枚もありません。
なぜ万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂という有名人が日本書紀に登場しないのでしょうか。出生も不明です。
万葉集に「読み人知らず」が多いのも謎ですね。歌人がわからない歌とは何を意味しているのでしょうか。
40歳くらいが寿命だと言われる時代に100歳以上の長寿の天皇がゾロゾロいます。なぜ、こんなに天皇が長寿なんでしょうか。何か訳がありそうです。
大化の改新のあと、元号は続かなかったようです。飛び飛びの元号とは、どういうことでしょうか。
とにかく、根拠があいまいな子供だましのような学説ではなく、古田史学は、いろんな疑問に明快に答えます。
ですから素直に理解できます。
文献の原文を勝手に自説に都合良く直してしまう通説は、全く信用できません。これに対して文献を勝手に直さずに、理論付けを行う古田氏の仮説は、素晴らしいと思います。
古田氏の説は、以下のように、いろいろありますが、まず第1に邪馬壱国の位置を方角も距離も、文献を改訂せずに、明確に特定したことでしょう。
このほかにも、通説よりしっかりした説明で納得できます。
<古田史学の説の数々の一部>
1 邪馬台国ではなく邪馬壹国である。 三国志では邪馬台国と書かれていない。全て邪馬壹国と書かれている。
2 金印「漢倭奴国王」は、漢の直接統治の属国の王に与えられたのだから、「漢の倭の奴の国王」ではなく、「漢」の「倭奴」の「国王」と読む。
3 倭国は新羅と国境を接すると好太王碑にある。倭国の領地は、日本列島と朝鮮半島にまたがっている。
4 卑弥呼の時代には、魏では短里(77m)が用いられていた。
5 魏志倭人伝で、帯方郡から邪馬壱国までに至る距離を加算すると、確かに12000余里となる。
6 邪馬壹国の首都は、九州北部の今の太宰府、都督府である。
7 中国側が認めていた倭国は、九州中心の国である。
8 九州王朝は倭(ゐ)と呼ばれ、卑弥呼から白村江の戦いまで、延々と続いた。
9 「邪馬壹國」は九州王朝の前身であり、その後九州王朝は白村江での敗北により九州王朝の天皇である筑紫の君薩夜麻が唐の捕虜になり、滅亡にむかった
10 天孫降臨の地は、日向国(ヒュウガノクニ)ではなく、筑紫の日向(ヒムカ)である。福岡市と前原市の間にある日向峠である。
11 古い時代、日本では2倍年歴が使われていた。
12 磐井の乱は、ねつ造である。磐井の乱はなかった。
13 日出ずる処の天子は聖徳太子ではない。九州王朝の多利思北孤である。
14 天皇の称号を最初に用いたのは九州王朝である。
15 大和王朝の前に独自の年号を使っていた。いわゆる九州年号である。
16 壬申の乱の吉野は吉野ヶ里で有名な吉野のことである。 など
この伊都国の何代か前の王が金印を得たと思われる。
このような見方は、「まぼろしの邪馬台国」で宮崎康平氏が提示している。イナ国で米作が広まったことから稲をイネと呼ぶとも説明されている。また、今は糸島半島であるが、糸島はれっきとした島であった。金印が発見された志賀島は、糸島と博多湾を挟んだ位置関係にある。)
三角縁神獣鏡にしても、そんなに大切なものなら、正倉院にあって良さそうなものですが、1枚もありません。
なぜ万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂という有名人が日本書紀に登場しないのでしょうか。出生も不明です。
万葉集に「読み人知らず」が多いのも謎ですね。歌人がわからない歌とは何を意味しているのでしょうか。
40歳くらいが寿命だと言われる時代に100歳以上の長寿の天皇がゾロゾロいます。なぜ、こんなに天皇が長寿なんでしょうか。何か訳がありそうです。
大化の改新のあと、元号は続かなかったようです。飛び飛びの元号とは、どういうことでしょうか。
とにかく、根拠があいまいな子供だましのような学説ではなく、古田史学は、いろんな疑問に明快に答えます。
ですから素直に理解できます。
文献の原文を勝手に自説に都合良く直してしまう通説は、全く信用できません。これに対して文献を勝手に直さずに、理論付けを行う古田氏の仮説は、素晴らしいと思います。
古田氏の説は、以下のように、いろいろありますが、まず第1に邪馬壱国の位置を方角も距離も、文献を改訂せずに、明確に特定したことでしょう。
このほかにも、通説よりしっかりした説明で納得できます。
<古田史学の説の数々の一部>
1 邪馬台国ではなく邪馬壹国である。 三国志では邪馬台国と書かれていない。全て邪馬壹国と書かれている。
2 金印「漢倭奴国王」は、漢の直接統治の属国の王に与えられたのだから、「漢の倭の奴の国王」ではなく、「漢」の「倭奴」の「国王」と読む。
3 倭国は新羅と国境を接すると好太王碑にある。倭国の領地は、日本列島と朝鮮半島にまたがっている。
4 卑弥呼の時代には、魏では短里(77m)が用いられていた。
5 魏志倭人伝で、帯方郡から邪馬壱国までに至る距離を加算すると、確かに12000余里となる。
6 邪馬壹国の首都は、九州北部の今の太宰府、都督府である。
7 中国側が認めていた倭国は、九州中心の国である。
8 九州王朝は倭(ゐ)と呼ばれ、卑弥呼から白村江の戦いまで、延々と続いた。
9 「邪馬壹國」は九州王朝の前身であり、その後九州王朝は白村江での敗北により九州王朝の天皇である筑紫の君薩夜麻が唐の捕虜になり、滅亡にむかった
10 天孫降臨の地は、日向国(ヒュウガノクニ)ではなく、筑紫の日向(ヒムカ)である。福岡市と前原市の間にある日向峠である。
11 古い時代、日本では2倍年歴が使われていた。
12 磐井の乱は、ねつ造である。磐井の乱はなかった。
13 日出ずる処の天子は聖徳太子ではない。九州王朝の多利思北孤である。
14 天皇の称号を最初に用いたのは九州王朝である。
15 大和王朝の前に独自の年号を使っていた。いわゆる九州年号である。
16 壬申の乱の吉野は吉野ヶ里で有名な吉野のことである。 など
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「アマタリシホコ」
この本は紀伊国屋で買い求められるということです。
また、古田先生の本を読まれたい方は
この3冊がお勧めです。