特高の(高級)官僚たちは公職追放をすり抜けてその後も出世し、54人も国会議員に!

昔、日本の警察は人を殺してたんです

ひとさまのtweetから…

今、極右政権に敢然と対峙しなければ、かつての小林多喜二の死を無駄にすることになる。
小林多喜二の遺体囲む別写真、発見 枕元でうなだれる母』朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASH2M4HVRH2MULZU006.html

リンク先の記事の写真も転載しときます…
小林多喜二の遺体囲む別写真、発見 枕元でうなだれる母 (朝日:2015年2月21日)

写真・図版今回見つかった場面。

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mzponta/20150221/20150221203604.gif

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mzponta/20150221/20150221203605.gif

 「蟹工船」で知られ、警察によって虐殺された作家小林多喜二(1903~33)の遺体を仲間らが囲む有名な写真などの原板十数枚が見つかった。枕元に遺族が座る別カットも発見された。撮影者も日本プロレタリア作家同盟のメンバー貴司山治(きしやまじ、1899~1973)と判明。20日は多喜二の命日だが、日本近代文学の貴重な史料となりそうだ。

 原板は6・5センチ×9センチのガラス乾板で、英国イルフォード社製の箱などに保管されていた。貴司の長男でプロレタリア文学研究者の伊藤純さん(82)が遺品から見つけた。

 新発見の別カットは、多喜二の最愛の母セキら親族が枕元でうなだれている場面。築地署で虐殺された多喜二の遺体が自宅に戻った2月21日深夜から22日未明の撮影とみられる。~

朝日の記事では、「警察によって虐殺された」と書いてますが

多喜二を虐殺したのは「特別高等警察特高)」という組織で、

これは警察のなかで、思想犯を取り締まるために設けられたもんです


それでなくても、日本の戦前の警察には「人権概念」が希薄だったのに、

その警察の中でも特にこの特高は、「国体護持」(天皇を頂点とする国家体制の維持)のために

その障害になりうると「彼らが判断した」人たちを捕まえては

「被疑者の自白を引き出すために暴力を伴う過酷な尋問、拷問を加えた」(ウィキ)という

それはそれは怖ろしい組織だったんです

(アマゾンの『特高警察 (岩波新書) 新書』の書評には
特高警察の拷問による虐殺80人、拷問による獄中死114人、病気による獄中死1503人」
「特に、植民地であった朝鮮や台湾、あるいは「満州国」での特高警察の過酷さは、本土の比ではなかった」
とあります)


特高はそういう怖ろしい思想警察だったので、敗戦後にはGHQによって廃止されます…が

特高に属していた職員たちの戦後の処遇についても書かれてある。
 公職追放となったのは、わずか319人。いろいろな抜け道によって、多くの人が、
 他の官庁に転籍するだけとなったり、その後公安警察に復帰している」(同書評より)

というものだったので

「筆者によると、その人員は公職に復帰するなど、戦後も特高警察的機能は現在も生き続けているという」(同書評より)


この特高に限らず、戦前の仕組みが形式的に廃止、あるいは解体されたにも関わらず

戦前の仕組みを支えてきた人物が処罰されることもなく、また社会の中枢に戻っていった…という事例は

多々ありまして、(例えば、人体実験をしていた731部隊の関係者の多くは

その後、日本の医学会、医療界の指導的立場に立っています)、結局…
太平洋戦争の敗北によって新たな日本になったと思っている人がほとんどだろうが、単にたまたま負けた、つまりちょっと「ブレた」だけで、行政も国家も日本という国のコンセプトも変わっていないということをどれだけの人が知っているだろうか。本書は、それを特高警察の生き残りが戦後も跳梁していることを実名を明かすことによって証明した。「新生日本」など幻想であり、戦後は実に戦前の延長に過ぎない。(アマゾン『告発戦後の特高官僚―反動潮流の源泉』の書評より)
日本は戦争には負けたけれども、その内実は戦争に負ける前と後で断絶しているのではなく

特に、指導的立場にある人間がほぼ横滑りしたために、

「戦後も戦前の延長」に過ぎない…という、それはそれは怖ろしいことになってるんです


そういう「怖ろしいコト」がなぜ起きてしまったのか…と言えば

それはGHQの占領政策が(反左翼主義へ)ブレたから…という面ももちろんあるんですけど

それよりも、日本が自分たちの手であの戦争を総括しなかったから…ということが

一番大きな原因である…ということで、結局、またそこかい…というお話でした





※世にも怖ろしき参考資料です
国会議員になった特高官僚の名は? (2005年3月17日(木)「しんぶん赤旗」より)

 〈問い〉 国会議員になった特高の名前は?(京都・一読者)

 〈答え〉 戦前、特高警察の拷問などで命を奪われた人だけでも1697人以上にのぼります(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調べ)。こうした人道に反する犯罪をおかした特高たちは、戦後、約5000人が公職追放となり、特高課配属の下級警察官は職を失いますが、特高官僚は「休職」扱いで多くが復権、要職につきました。柳河瀬精氏の調べによると、国会議員には次の54人がなりました。(『告発―戦後の特高官僚―反動潮流の源泉』参照、当選順、主な特高歴)

 大久保留次郎・警視庁特高課長、増田甲子七・警保局図書課、松浦栄・秋田県特高課長、大村清一・警保局長、鈴木直人広島県特高課長、岡田喜久治・警視庁外事課長兼特高課長、青柳一郎・熊本県特高課長、鈴木幹雄・警視庁特高部外事課長、中村清・京都府特高課長、西村直己・静岡県特高課警部、館哲二・内務次官、町村金五・警保局長、池田清・警視庁外事課長・警視総監、今松治郎・警保局長、大麻唯男・警保局外事課長、岡田忠彦・警保局長、岡本茂・新潟県特高課長、河原田稼吉・保安課長・内相、菅太郎・福井県外事課長兼特高課長、薄田美朝・大阪府特高課警部・警視総監、田子一民・警保局保安課長兼図書課長、館林三喜男・警保局事務官活動写真フィルム検閲係主任、富田健治・警保局長、灘尾弘吉・内務次官、丹羽喬四郎・京都府特高課長、古井喜実・警保局長、山崎巌・警保局長、吉江勝保・滋賀県特高課長、相川勝六・警保局保安課長、雪沢千代治・兵庫県外事課長、橋本清吉・警保局長、保岡武久・大阪府特高課長、伊能芳雄・警視庁特高課長、大達茂雄・内務相、後藤文夫・警保局長、寺本広作青森県特高課長、広瀬久忠・内務次官、大坪保雄・警保局図書課長、岡崎英城・警視庁特高部長、唐沢俊樹・警保局長、纐纈弥三・警視庁特高課長、亀山孝一・山口県特高課長、川崎末五郎・警保局図書課長、高村坂彦・鳥取県特高課長、重成格・警保局検閲課長、増原恵吉・和歌山県特高課長、桜井三郎・警保局事務官ローマ駐在官、湯沢三千男・内相、安井誠一郎・神奈川県外事課長、奥野誠亮・鹿児島県特高課長、古屋亨・岩手県特高課長、金井元彦・警保局検閲課長、原文兵衛・鹿児島県特高課長、川合武・長野県特高課長

特高の下級警察官が公職追放によって警察職から離れる一方で、

特高の(高級)官僚たちは公職追放をすり抜けてその後も出世し、

なんと54人も国会議員になった
…というのは、

この国の戦前と戦後の連続性を「客観的に示す」一資料であると思います


そんでも、これを同じファシズム国家であったドイツに例えてみると

ナチスの秘密警察(ゲシュタポ)の幹部の多数が戦後にドイツの国会議員になったようなもんなので

それがいかに「異様なこと」なのか…がわかってもらえると思います



731部隊関係者の「出世」一覧表も紹介しとこ…

http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/iryou/731butai/kitikunoshokugyou.htm731部隊関係者の戦後の職業(明らかな者のみ)。731部隊関係者は天皇裕仁と同じく、戦後はアメリカの政治的理由に基づいて、その戦争犯罪が免責されている。(←ひとさまのtweetから)