検察の罪と罰<本澤二郎の「日本の風景」(2058)

検察の罪と罰<本澤二郎の「日本の風景」(2058)

<どうする東芝疑獄>
 東芝経営陣と株主双方に配慮するような甘い第三者委員会の報告書の概要が、7月20日に明らかとなった。新聞テレビは相変わらずスポンサー東芝に対して「不適切会計」という、これまた甘すぎる評価で報道している。裏金作りの粉飾決算という真実に向き合おうとはしていない。戦後最大・最悪の財閥疑獄の発覚に対して、日本の検察はどう対応するであろうか。


<三井住友に屈服か>
 東芝は日本最大財閥・三井住友傘下の原発・武器製造メーカーである。安倍・国粋主義政権の支援財閥で知られる。
 そうだからといって、検察が法治・法の下の平等を放棄するようでは、もはや日本は国際社会で通用しない。4流国レベルである。日本検察が、そのことを世界に披瀝することになるのかどうか。
 日本という国の品格が問われている。世界が見ている巨大疑獄事件である。嘘で固めた有価証券報告書は1回限りではない。5年、10年と続いてきたものであろう。
 これが日本資本主義の正体だとすると、もはや評価するに値しない。
<3・11の東電に屈した検察>
 2011年3月11日の東北巨大地震が、東芝の粉飾事件を露見させてしまったものだろう。東電福島原発3号機は東芝製である。ここで核爆発が起こり、中性子が放射された。その被害・惨状は計り知れない。
 ドイツが支援を申し込んでも、日本政府も東電も拒否することで、真実の露見を封じ込めてしまったのだが、それを長く隠蔽することは出来ない。東芝戦略の挫折を意味している。
 この東電の黒幕も三井住友である。その政治力で東電破綻を強引に排除、血税の投入で生き延びさせている。そうして三井も沈没を免れている。本来、三井は東電と共に消え去る運命にあった。
 この、世にも恐ろしい事件に対して、検察はこぶしを振り上げることさえ出来なかった。検察の死を意味していた。国家とは何か、法治とは、社会正義とは、という深刻な懸念に対して、検察は答えることは出来ない。
<史上最悪の放射能事件に逮捕者ゼロの検察>
 こうした日本検察の腐敗した正義によって、東電関係者は一人も逮捕者を出していない。誰一人責任を取っていない。こんな不思議な国が、ほかにあるだろうか。
 福島県民・東北人がまともに対応すれば、東電が生き残ることも、逮捕者ゼロもありえなかった。要するに、3・11以後の日本は、以前の日本と隔絶してしまったことになる。国家としての体をなしていない。

 そこを悪用して日本国粋主義が権力を掌握した。むろん、背後の黒幕は財閥である。三井や三菱の支援で、国粋主義者が権力を掌握したものである。そこに創価学会をはめ込んで、与党に3分の2の議席を確保させたものである。
 実に恐ろしい悪の野望が、いま進行していることが理解できるだろう。危険きわまりない航海へと船出させられた、日本国民も哀れをかこつ。正に、そうであるがゆえに、学者・文化人・主婦・若者も決起、戦争法排除に立ち上がっている。十分すぎる理由があろう。
 2015年、戦後70年に行動しない人間は、屑である。人間ではない。
徳洲会疑獄にも入り口で中止>
 東電追及には、自民党から共産党までがいい加減に振舞ってしまった。東電・三井住友の毒牙に対して、政府も議会も司法も手も足もでなかったのだ。これが日本の真実なのである。
 法治も絵に描いた餅でしかなかったことを、知識人に印象付けてしまった。
 その悪しき成果は、徳洲会疑獄事件においても引きずってしまった。この巨大な医療法人は、途方もない免税措置のお陰で、徳田虎雄は暴利をむさぼり、それを石原慎太郎など政界にばら撒いてきた。千葉県知事にも、である。
 だが、正義の検察は小さな選挙違反事件だけで、捜査を止めてしまった。政府の意向に配慮したものであろうが、関係者に失望を与えている。
 むろん、今も事件は尾を引いている。真相追及の正義の士の活動は続いているが、大手の新聞テレビは官邸の圧力に屈してしまっている。議会も、共産党以下この問題の表面化に抵抗している?
<政治不信の元凶が検察>
 中国では、前政権の中枢人物も腐敗で追及が始まった、と新華社が報道した。残るは大物官僚の子弟に焦点が移っている。
 筆者は息子の医療事故を不起訴にした東京地検に対して、怒りをもって今後とも追及していく。東芝に屈した東京地検は、自ら犯罪を犯していることに気付くべきだろう。それによる国民の政治不信に対する責任も大きい。筆者は直接体験したものであるから、その衝撃は今も大きい。
 妻はその衝撃で、息子の後を追って、逝ってしまったことも、無念のきわみである。東芝事件関連の情報は、引き続けて、止むことはない。日本資本主義を愚弄した佐々木と田中は、逮捕・私財没収されて当然である。
 良識ある株主と内部告発者の決起を強く求めたい。因果応報である。
2015年7月21日記(日本記者クラブ会員・政治評論家)