死に神が舞い降りてきたんじゃない、原爆が落とされたんだ

死に神が舞い降りてきたんじゃない、原爆が落とされたんだ

昨日から今日にかけてのTVは、ニュースに限らず、「歴史的」と銘打ったオバマ大統領ヒロシマ訪問ネタ一辺倒…であることが予想されたため、ぼくの父はほとんどTVを見ずに、衛星放送を見続けております

いや、ぼくの父だって(+ぼくだって)、オバマ大統領が核爆弾投下の非を認めて謝罪する…ということであるなら、TVを見て、オバマ大統領の言葉をしっかりと聞きたかったところですが

ヒロシマ訪問の前からオバマ大統領が「核爆弾投下の是非には踏み込まず」「反省の態度も示さす」「謝罪と受け取られる振る舞いもしない」…ということが予告されていたので
それ以外の言葉なんて、聞く意味もないやろ…と考えているところです

で、オバマ大統領のヒロシマ訪問に関しては、数日前にも一度書いたところではあるんですけども

やはり、相手の言うことを一切聞かないままでお終いにする…というのも大人げないと思うので、メディアに出ていたオバマ大統領のスピーチを目で追いながら、改めて書いてみます


ざっと目を通した印象をひとことで言うと、オバマさんの言葉はぼくにはまったく響いてきません

オバマさんはスピーチの全体を通じて、「歴史をひもときながら」「戦争というものの悲惨さ」を解説してくれるのだけれど、そんな講釈は他の人たちから今まで何度も聞いてきたことだったので、ぼくにはなんの目新しさもありません


オバマさんは冒頭で、「71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、」…と、

なんだか、物語を読むようなコトを言ったんですけど、71年前に空から降ってきたのは核爆弾…でありまして

その核爆弾は降ってきたのではなく、アメリカが落としたものであります。
当事者(あるいはその地位を承継するもの)が第三者のように物事を語る…
それは、当時者性の否定にしか映りません

一般的な「歴史の教訓」なら、オバマさんに教えてもらわなくても、ぼくたちだってわかっているつもりです

それに、ぼくたちに「戦争の悲惨さ」を語る者が、戦争を反省し忌避する態度を取る…とも限らない話であり

現在進行形で「戦争」(≒他国への武力行使)を続けているアメリカの指導者から、「戦争の悲惨さ」や「歴史の教訓」を語られても…と、ぼくは思うのです


オバマさんだからヒロシマに来た…

オバマさんは(アメリカ国内の政治的・社会的抵抗があっても)できる限りのコトをしたんだ…

ぼくと違って、そんな暖かい目でオバマさんを見守る人たちも、この国には大勢いるようです

けれども、なぜにそこまで「アメリカの事情」をこちらがおもんばからないといけないのか?ぼくにはそこからわからないのです

日本に核爆弾を落としたのがロシア(旧ソビエト)だったとしても、

そんな温かい目を持ち得たのだろうか…ぼくはそんなことを考えずにはいられません

アメリカに怒りを向けることは、この国ではタブーのようです

唯一、敗戦後一貫してアメリカに踏みつけられ続けている沖縄だけが
現在もアメリカに怒りを向けていますが、その怒りに本土の人々が共感できない…というのは
まったくおかしな話であると思います


ぼくたちは戦争に負けて、怒る権利まで放棄したんでしょうか

いや、おなじく戦勝国であるロシアや中国には、いつも怒ってるじゃないですか

・・・・・

今、怒らないで、いったい、いつ、怒るんですか

今、謝罪を求めないで、いったい、いつ、謝罪を求めるんですか

アメリカにとって今回のヒロシマ訪問は、ぼくからして「得るものがあるだけ」で

実は政治的外交的な抵抗など、それほど強くはなかったと思っています


だって、今回のヒロシマ訪問で「一区切り」になるんでしょ?

これで「核爆弾投下」に関しては政治的外交的に「お終い」になるんでしょ?

(その点については、アメリカ政府も日本政府もおなじ立場でありましょう)

これで「一区切り」「一件落着」、じゃ次は「パールハーバー真珠湾)で待ってるね…」

そういう予定なんですよね?

こんなことなら、真珠湾に先に行っとけばよかったんだ(行くべきだったんだ)

真珠湾に行って、ちゃんと詫びておいたらよかったんだ(詫びるべきだったんだ)

(でも、日本政府は、これで真珠湾のときも謝罪なしで済む…って思ってるかも知れないね)

・・・・・

核爆弾によって無惨に殺された人々に代わって、

ぼくたちが「過ちを認めないままに許す」なんてことができるんでしょうか

(ぼくは、そんなこと、とてもじゃないけど、できません)


戦争が「悪」であるなら、その悪を始めた者を糾弾すべきなのです

核兵器が「悪」であるなら、その悪を使った者を糾弾すべきなのです

それを抜きにして「反省もしていない者」をただ許す…ことは

戦争を核兵器を許すことと同義だと、ぼくは思います


日本は戦争の加害国であり、核兵器の被害国でもある…

だから、日本は核兵器使用を糾弾するとともに、自らの戦争責任を糾弾しなければなりません

(そのうちのどれが欠けてもいけないのです)


「原爆は落ちたのではない、アメリカによって落とされたの(だ)」…

これは今日、偶然に見つけた「ヒバクシャからの手紙」(NHK)にあった言葉です

ぼくは、オバマさんの歴史講釈を読み返す気持ちは起きませんが

この手紙は何度も読み返したい気持ちです




※…ということで、オバマさんのスピーチは、ホントに「一度ざっと目を通しただけ」でありますが

オバマさんは冒頭で「韓国・朝鮮人の被曝(死)」に言及しています

日本では「唯一の(戦争)被爆国」と称することについて、特に問題にはなっていませんが

ヒロシマナガサキでは、万単位の韓国・朝鮮人が被曝死しております

(→それは、上記の「ヒバクシャの手紙」のなかでも言及されています)

この点、日本が「唯一の(戦争)被爆国」であるとしても、

「ヒバクシャを代表して」アメリカに謝罪を求めない…なんて言える立場にはない…

ということだけは、しっかり押さえておきたいところです




オバマ大統領の言及した「被曝死者数」は、日本人の数も韓国・朝鮮人の数も「過少申告」のようですが

それについて、日本政府は特段、何も反応しないようです

(加害者の「加害過少申告」は、日本も真似したい立場だから…なんでしょうかね?)




※消えてしまうと困るので、ぼくが何度も読み返したいと思っている「ヒバクシャからの手紙」を転載しておきます

被爆と私の人生


私は小学校5年生の時、広島市八丁堀(爆心750メートル)の福屋百貨店前の満員電車の中で被爆し一緒にいた母を失った。

北に逃げる途中の恐ろしい地獄絵図は忘れられない。その後、脱毛発熱(40度以上)が半月あまり続いたが、奇跡的に回復し今日に至っている。

高校1年生の時、当時広大の学長であった長田新先生の求めに応じて「被爆手記」を書いたが、このときの手記が有名な「原爆の子」として出版された。しかし私の手記はなぜか掲載されなかった。

「原爆の子友の会」に参加した私は後に「原爆の子」の編集に参加された長田太郎氏(新先生のご長男)から私の手記の「原爆は落ちたのではない、アメリカによって落とされたので人類最大の犯罪である」と言うところと、「アメリカは朝鮮で戦争を起こしたが原爆を使用するに違いない。許してはならない」と言う箇所が占領軍に問題にされ発刊できなくなると、岩波の編集者が掲載削除を主張し省かれたと聞かされた。

以後、「わだつみ会」に参加し、原水爆禁止の署名活動では戸別訪問したりし、1955年の第1回原水爆禁止世界大会では「原爆の子友の会」から構成詩の発表で参加、また広島合唱団の一員として第1回平和音楽祭に峠三吉の「父をかえせ母をかえせ」で参加した。

私は以後京都の大学に進学したが、学生運動でも「反核平和」を常に主張し、60年安保闘争では大学学友会の委員長として1年以上精魂込めた戦いに挑んだ。

社会人になっても機会があれば原爆被爆体験の講話を行い、1984年京都での「丸木伊里、俊の原爆の図を見る会」を契機に宇治市で発足した「平和の会」の年中行事の「広島市民の被爆絵画展」で毎回被爆体験講話を15年間行った。この間学校、教会、労組、病院、原水禁集会など多くの場所で今日まで講話を続けている。

私は20余年前、アジアの留学生に体験講話をした時、多くの留学生に感動されたが、質問の最後に立った中国の留学生の「貴方には気の毒だと思うが、あの原爆でアジアの多くの民衆が日本人の毒牙から解放された」と語ったとき、私は「沖縄も占領され、空、海も完全に連合軍に制覇され、大阪、東京の大空襲にもなすすべも無く、原爆投下の目的は他にあった」と釈明したが、日本がアジアに行った限りない残虐行為に目をつぶって被爆者体験講話はできないと思った。

「80年代の世界的反核運動」「核軍縮」などを経ても、中国、フランス、イスラエル、インド、パキスタンと「核」の拡散は地球規模で広まり、日本でも小泉政権を経て安倍内閣登場で「核」は仕方ないから「核」の議論が必要だと言った風潮が際限なく広がり、ついに「憲法審査会」まで登場してきた。

今、私は被爆体験講話にあたり、あの戦時中、国家予算の70%が軍事費に使われ国民は食糧難や物不足に悩み、子供まで「欲しがりません、勝つまでは」の時代が忘れられていると話す。アジアへの侵略が無かったように語られ、戦争慰安婦の強制問題も無かったと神国日本の無謬性(むびゅうせい)が靖国神社だけでなく多くの論壇に登場している。

さすがに生き証人が身内に多数いる沖縄の「集団自決の軍の強制」については県民の総反撃で撤回されたが。日本の戦争責任は流され、憲法の改定が議論され登壇している。

私は体験講話の中で必ず朝鮮人被爆と戦争責任の話をする。半世紀以上たって少しは改善されたが、外国人特に朝鮮人被爆者への無責任ぶりは恥ずべきである。

2000年代に入り、政府による原爆死者追悼記念館が発足した。私は開館2日目に訪問し亡母の写真などを見たが、円形の階段を下りたところに展示されている「被爆死者」の数字にある感慨を覚えた。
「当時の被爆した市民は35万人で内13万人±1万人が死亡した」(一昨年見たときは14万人±1万人になっていた)とある。私は20数年前に原水禁集会の資料で、当時の朝鮮人被爆者は5万人で内3万人が被爆死したと記憶していた。おそらく日本人被爆者の数が2、3年で1万人増えたように朝鮮人被爆死者の数も増えているはずである。(被爆死者とは1945年12月までの被爆死者を言う)最初の数字で日朝の被爆死者の数が日本人3割、朝鮮人6割であることに気づいた。

私が爆心近くにありながら奇跡的に生き延びられた一つに、その日の内に市内を出て高田郡の田舎に逃げたことがある。しかし朝鮮部落や飯場に住まわされていた朝鮮人たちは逃げる先も無く、放射能渦巻く焼け跡にトタンのバラックを作り、汚染した太田川の水を飲料にした。これが被爆死者2倍の差に現れている。

後に気づいたことだが、当時私たちの学年は縁故、家族、集団疎開などで殆どが広島にいなくて直接被爆をしていない。私のように当日広島に出かけてわざわざ被爆した生徒はごく少数である。当時私たちの学年には朝鮮人の生徒がたくさんいた。(先の被爆者数を見ても7分の1は朝鮮人である。)私は最初集団疎開に行ったが、のち母が親戚を頼って疎開した為集団疎開から離れた。

中学に入ったときあれだけたくさんいた朝鮮人の生徒が学年に1人か2人しかいなかった。私は戦争が終わり朝鮮の人たちは故郷に帰ったと思っていたが、後の朝鮮人の学童たちは、名前まで日本名を名乗らされ天皇陛下の赤子にしていただいた、それが故に小学生といえども「銃後」の守りにつかされ疎開できなかったと知った。

朝鮮人は差別されていたが、学童疎開をしていれば被爆しなかったはずであり、戦後見当たらなかった友人の金村君、新井君、京本君などはおそらく3万人の被爆死者に入ったのであろう。かれらの多くは日本の朝鮮侵略でやむ無く来日した人々が圧倒的であった。

私がこの話を小学生に話すと多くの児童が「日本は拉致よりももっと酷いことをしたんだ」という反応がある。日本の政治家や大人たちはこんな恥ずかしいことを忘れたか頬かぶりしている。

ともあれ教育基本法が変えられ、憲法を変えようとする国会議員が3分の2を占める事態は、あの悲惨な戦争を体験した私には全く納得できない。生のある限り「反戦反核」の訴えを続けたい。
(NHK:『ヒバクシャからの手紙』より)


※この件に関する数あるひとさまのtweetのなかで、一番印象に残ったものをひとつだけ紹介しておきます
日本人は、日本が「加害者」であることはもちろん「被害者」であることさえ忘れてしまった。71年という年月が、ただ流れることが「許し」であり「癒やし」であるならば、先の戦争は「殺したもの勝ち」であり「殺されたもの負け」。無残に殺された者はそれで救われるのか?さぞ無念だろうと思う。

「時(の経過)」がすべてを解決するわけではなく

「時(の経過)」があることをなかったことにするわけでもない…

生きている者は死者の代わりに記憶し続ける責務がある…と、ぼくは思います