マスゾエ君の辞職は、メディアの勝利。甘利はどうした?

2016-06-15

♪おーい ジミントくん♪

ただ今、日本一の「憎まれキャラ」のマスゾエくんが、とうとう、都知事を辞職することになりました

このたびの騒動を眺めて改めてわかったことは、たとえそれが「法律違反でなくても」

メディアが総がかりでその「せこさ」を追及し、視聴者たる市民がそれに同調すれば

政治家のクビを取れる…ということであります

とすると、今回の結果は「有権者の勝利」というよりは「メディアの勝利」というべきものであり、

やはりメディア(特にTV)には、絶大な力がある…と感じずにはいられません

(ネットは、それを利用する人たちにとっては影響力があるように感じられるでしょうけど
 TVに比べるとその影響力はまだまだ比較にはならないと思います)


このような影響力がTVにあるのなら、検察が「法律違反じゃないのよ」と判断した甘利さんのことも

TVが総がかりでその「絵に描いたようなあっせん利得の構図」を追及し、視聴者がそれに同調すれば、

(肝心な事件では働こうとしない)検察の力を借りずとも、甘利のクビも取れるだろうに…

ぼくはそんなことを考えたりもします


マスゾエくんはOKでも甘利さんはダメ…

ぼくには、TVがなぜにそのような基準を設けているのかわかりませんが

これが「安倍ちんの会食接待」および「高市停波恫喝」の効果であるとしたら…というか

もう、それしかない…と言いたいところですが、そんなことされなくても、

TVは昔から自民とうまくやってきてるところ、その傾向が若干強まっただけ…という気がせんでもありません


名もなき市民が表現の自由を行使して情報発信したとしても

ぼくたちがその表現を知る機会は極めて限られるところ

TVをはじめとする大手メディアの報道の自由は、

ぼくたち名もなき市民の表現の自由を代行するものとして、とっても重要な自由であります

つまり、市民の表現の自由は事実上、大手メディアの報道の自由で担保されているのも同然…なのでありますが

報道の自由を行使する主体である大手メディアが、そのとっても大事な自由を行使してくれない
…ということになると

それは報道の自由のみならず、ぼくたちに表現の自由がない…ということに等しくなるわけでありまして

報道の自由を行使する主体が大手メディアに見当たらない現在の日本は、

事実上、表現の自由がない…のもおんなじであろうかと思います




※最近、ますます頭の動きが鈍ってきてる…と言いつつ、

久しぶりに替え歌を思いついたので、紹介しときます…

(なんか、肝心なことをすっ飛ばしてこういうトコだけ頭が動く…というのも、頭が衰えてる証拠やな…)


それでは、まず、元歌(もとうた)の歌詞を…
お ー い 中 村 君 (昭和33年)

作詩 矢野 亮  作曲 中野忠晴  歌 若原一郎

1 おーい 中村君
  ちょいとまちたまえ
  いかに新婚 ほやほやだとて
  伝書鳩でも あるまいものを
  昔なじみの 二人じゃないか
  たまにゃつきあえ
  いいじゃないか 中村君


2 おーい 中村君
  そりゃつれなかろう
  入社当時は いつでも一緒
  くぐりなれた 横丁ののれん
  可愛いえくぼの 看板娘
  噂してるぜ
  いいじゃないか 中村君


3 おーい 中村君
  心配するな
  どうせなれてる 貧乏くじにゃ
  みんなこっちが 悪者ですと
  詫びの言葉は まかせておきな
  おくってゆくから
  いいじゃないか 中村君

http://www.uta-net.com/movie/43671/(←このリンク先で歌が聴けます)
(この歌、知ってる人の方が圧倒的に少ないやろな…)


では、『おーい 中村君』の替え歌で、『おーい ジミントくん』…です↓

おーい ジミントくん

(作詞…というか変詞:三日月ポン太)

おーい ジミントくん
ちょいと 待ちたまえ
いかに都知事が 不人気だとて
野党の立場じゃ あるまいものを
昔なじみの 二人じゃないか
甘利もいるから
いいじゃないか ジミントくん

おーい コウメイくん
そりゃ つれなかろう
出馬当時は いつでも一緒
くぐりなれてた 選挙ののれん
自公主導じゃ 誰でもおなじ
噂してるぜ
いいじゃないか コウメイくん

おーい マスゾエくん
心配するな
どうせ慣れてる 都知事の選挙
みんな都知事が 悪者ですと
責めの言葉は まかせておきな
自公でゆくから
いいじゃないか マスゾエくん

この替え歌も、元歌のメロディにのせてちゃんと歌えるので(→それが替え歌の鉄則)

元歌を知ってる人は、是非、声を出して歌ってみてね…

(でも、人のいないところでね…)

 


※この件に関する若干の補足情報を…
石原慎太郎みたいな「キャラの立った」「貫禄のある」「無茶なジジイは先刻承知な」知事なら、どんなに無駄金を使ってもOKだが、イノセだとかマスゾエみたいな小物がコセコセと私腹を肥やすのは許せない、という都民の感覚は、ある意味パターナリズムの変形(家父長を求める奴隷根性)なのかな。
(↑ひとさまのtweetより)

ぼくからすると「マスゾエくんのせこさ」と「慎太郎くんのデタラメ」とは

後者の方が圧倒的に許せない(けしからん)話だと思うんですけど

そない感じてない都民が多いようで、それはとっても残念です


…というか、そない感じてないのは大手メディアもいっしょ…で

ぼくたちはそんな大手メディア(特にTV)の二重基準には極めておおらかでいる反面、

今回の「マスゾエせこすぎ疑惑」にはとっても怒ってしまった…(ついでに、その他のコトを忘れてしまった…)

…というのは、まさにメディアの思うつぼ…でありまして

これも一種の(注意点をそらせるための)「扇動」と言えなくもありません


ここで、事後的学習にはなりますが、「慎太郎くんのデタラメぶり」を知らなかった…という人のために、

その概要を説明する記事を紹介しておきます↓

舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由
(リテラ)

(→この記事を読んだら、マスゾエくんなんか「可愛らしいもん」やと思うけどな…)



自公が不信任を突き付けるならば「自分達の見る目がなかった、監視も甘かった。なので辞職と同時に解散で自分達の責任も同時に有権者に問いたい」とするのが筋
(↑ひとさまのtweetより)

マスゾエくんを担いだのは自民党公明党であり、

マスゾエ都政を支えてきたのも都議会自民党公明党であります

とすれば、少なくとも自公は「(他人のフリして)マスゾエくん叩き」をすればそれでお終い…

にしたらアカン人たちでありまして

こういう人を担いで支えてきた自らの不明をキチッと有権者に詫びてもらわんとあきません


また、マスゾエくんに貴重な一票を投じた有権者だって「マスゾエくんを叩いてお終い」にしたら

それは甘利にも…ではなくて余りにも「自分に甘すぎる話」なのでありまして

「マスゾエくんはけしからん!」と感じる百分の一くらいは「こんな人に入れた自分が愚かだった」と

自省して頂きたいところです

(それくらいはしてもらわんと、またおんなじ失敗をすることになると思うし…)