自民の改憲案は酷すぎる…その3

2016-06-24

自民の改憲案は酷すぎる…その3

このたびの参院選挙では、

自民党勝利のあとには、もれなく憲法改定がついてくる…

というのに、自民党はそのことを黙って選挙してるので、

そんな自民党に代わってぼくが自民党改憲案の宣伝(…というか批判)をしてあげるシリーズの3回目、

それではいつもの通り、朝日新聞の「憲法を考える」という連載記事を紹介しながら

自民党改憲草案の本質を考えてみたいと思います

(今回も、自民党憲法改定案を貫く理念ともいうべき内容が書かれた前文について…です)

憲法を考える)自民改憲草案・前文:3 「経済による国の成長」に収斂(朝日:2016年4月5日)

 日本はどんな国であろうとするのか。自民党憲法改正草案の前文に、次の一文がある。

 「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる

 自由と規律、国土の保全、教育振興が並び、最後は「国を成長させる」で結ばれる。そこに収斂(しゅうれん)されていく、と言ってもいい。少なくとも、この先も経済成長を続けることが日本には欠かせないと自民党が考えていることはよくわかる。教育や科学技術は、「活力ある経済活動」に大いに役立ってもらいたいということなのだろう。環境破壊には気をつけなければならないが、経済成長によってますます発展していこうではないか、と。

 これは現行の前文には見られない視点である。草案のこの一文には、敗戦直後には予想し得なかった高度経済成長を遂げ、経済的には世界の大国になった成功体験が透かし見える。政治的にも重きをなしたいと国連安保理常任理事国入りに血眼になったのも、各国への多額の援助という強力な支えがあってのことだった。驚異の右肩上がりよ再び、とまでは言わずとも、この先も下り坂はもちろん現状維持さえ前提にはできないということである。

 これは議論が大いに分かれるところに違いない。

 10年以上も前、月刊誌の企画で憲法の前文を公募する試みがあった。「全くもってタイシタコトのない 世界的にみてソコソコの国がいい」という高校生の作が話題になったが、私もこれにはひざを打った。先立っては、政治家から「質実国家」「小さくともキラリと光る国」といった言葉が盛んに語られていた時期もある。細川政権の頃だった。経済成長が最優先か、大国志向一辺倒で良いのかという提起である。

 その問いは古くて新しい。まして昨今は、新自由主義的な政策運営や格差社会の深化が大きな問題になっていて、学問までが経済成長に奉仕するものであるかのように扱われがちな現状には、大学人から異議申し立てが相次いでいる。

 アメリカの哲学者マーサ・C・ヌスバウム氏は、これを世界的な傾向として、民主主義に不可欠な諸能力が競争のなかで見失われつつあると著書「経済成長がすべてか?」で警告した。諸能力とは、批判的に思考する能力、「世界市民」として問題に取り組む能力、他人の苦境を共感をもって想像する能力を指している。

 それらの能力は、利潤追求のなかで切り捨てられゆく人文学や芸術と密接な関係にあるとヌスバウム氏は説き、「繁栄はしているものの民主的ではなくなった国に住みたいと思う人はあまりいないでしょう」と問いかけている。

 冒頭に引いた草案の一文は、「自由と規律」を「国を成長させる」文脈に置いている。前文のなかで、自由という言葉が登場する唯一の文である。ここは考えどころだろう。

憲法前文は憲法を貫く理念が示されるもの…なのに、そこで「経済成長」が語られる…というのは

誠に奇異な感じがします

自民党改憲案を素朴に受け止めると、

まるで日本国民が「日本国を経済成長させるために存在する」みたいなことになってますが

その根底にあるのはやはり、「日本国民よりも日本国(の成長)が大事」という本末転倒であります

自民党憲法観はまさにここに尽きる…のでありまして

日本国民は「それ自体が尊重される存在」なのではなく、

「日本国を経済成長させるための構成員」として尊重される…ということなのでしょう


そうなると、「日本国の経済成長に貢献しないような国民」は、尊重する理由はない…ことになるので

先日、麻生副総裁が老後が心配だという90歳の高齢者をして「オイいつまで生きてるつもりだよ」と言ったのは

自民党憲法観に合致する言葉だった…ということですね