お勧め映画「リトル・ボーイ  小さなボクと戦争」



映画の舞台は第二次大戦中のアメリカ。
身長99センチ、リトルボーイとからかわれる8歳の白人少年ペッパーは、お父さんが大好き。父親ジェイムズ(マイケル・ラパポート)の息子を見る目が優しく温かい。お互いを「相棒」と呼び合って、冒険ごっこを楽しむ日々だった。

しかし、徴兵で不合格になった兄の代わりに父親は戦争に取られ、落ち込むペッパー。
そのころ日本人捕虜が収容所から釈放されたハシモトが、ペッパーの住む町に帰ってきた。
アメリカ側から見た戦時中の日本人への対応がよくわかる。
「ジャップは出ていけ」
ペッパーと兄のロンドンは、父親を捕虜にした日本人を想像し、
ハシモトの家に石を投げ、窓ガラスを割る。
戦争は国と国との戦いでなのだが、敵国人は全て敵とみなされてしまうのが戦争の悲劇だ。ハシモトは彼らの父親と何の関係もないのに、日本人であるということだけで攻撃される。

翌日、教会に呼び出されたペッパーはオリバー司祭から、お父さんを呼び戻したいなら、君の信仰の力が試されると言われて、
これを全部やり遂げれば、神さまに思いは届くと、リストをもらう。
このリストに書いてあったのは・・


・飢えた人に食べ物を
・家なき人に屋根を
・囚人を励ませ
・裸者に衣服を
・病人を見舞え
・死者の埋葬を

そして、最後に「ハシモトに親切を・・・」と、書き添える司祭。

父親に帰って来てもらいたいペッパーは、しぶしぶハシモトを訪ねる。しかし、ハシモトは無視。彼のそっけない態度を司祭に訴えるも、
司祭からは「君の目から憎しみが消えるまではダメだ。心に憎しみがあるうちは願いは叶わない」と言われ、何度もハシモトを訪問するペッパー。
初めはハシモトを「ジャップ」と呼び捨てていたのに、ハシモトと名前で呼ぶようになる。
次第にペッパーは、ハシモトが敵ではなく、良い人なのだということを理解していく。
この過程がすばらしい。

敵と決めつけ、憎しみ、排除しようという心から、戦争は生まれるということを、それとなく気づかせてくれる。
お互いを理解しようと努力すれば、戦争ではなく友情が生まれるのだ・・。
ハシモトはリストの意味を知り、ペッパー少年を助け、励まし、また慰める。ハシモトとの様々な友情に心を打たれる。

今の日本はどうだろう?
「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」という、恥ずかしいプラカードを掲げてヘイトデモを繰り返す人たち、すぐに中国が北朝鮮が・・と煽る政治家たち。その先にあるものは憎しみと分断、そして戦争への道ではないだろうか。子供に平和と良い環境を残す責任がある大人たちは、もっと愛ある言葉を使い、将来を見据えて行動すべきだろう。

日系人ハシモトとリトルボーイ、ペッパーの友情を通して描かれるすばらしい平和へのメッセージではあるが、一つだけ気になることもあった。
戦争が終わればお父さんが帰ってくると信じるペッパーは、「戦争よ早く終われ!」とばかり、必死に海に向かって念を飛ばす。
原爆「リトルボーイ」が広島に炸裂し、戦争が終結したというニュースに、リトルボーイの思いが届いたと、町中から称賛される場面があった。ここは重たい気分になった。
アメリカでは今も、原爆戦争を早く終わらせるための必要悪であったという認識である。
もちろん、映画でもお母さんが「この原爆で、一つの街が滅んだのよ」とペッパーに教え、ペッパーも僕の願いで大勢の人が死んだのか・・と考えこむ場面もあったのだが・・。このタイトルにも関係しているので、複雑な思いであった。

とはいえ、すばらしい映画であり、脚本であった。
平和という名前を使って某法案を通した首相がいたが、平和に暴力は似合わない。平和とは人を愛することで得られるものであり、憎しみから何も良いものは生まれない。戦争も国家が仕掛けるものであるが、人を憎しむことを利用して始まり、傷つけ殺し合う愚かな行為である。

前半かなりネタバレしているのでこれ以上は書かないが、終わってもしばらくは感動の余韻に包まれ、客席は誰一人席を立つ人がいませんでした。ハンカチも必要です。

(メキシコの新鋭アレハンドロ・モンテベルデ監督は、広島に投下された原子爆弾“リトル・ボーイ”から着想を得て脚本を書き上げ、人種や年齢を超えた友情から人を許す事が平和へ繋がる道筋だと伝えている。

メキシコ最大の映画賞ルミナス賞で作品賞、最優秀監督賞、新人賞(ジェイコブ・サルヴァーティ)の3冠に輝いた、あの『ライフ・イズ・ビューティフル』(97)が引き合いに出される秀作。)