カトリックと茶の湯

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以前から気になっていたことがある。
なぜ、茶の湯の所作はカトリックのミサの所作と似ているのか??
 そんな疑問に応えてくれる展示があることを知って
京都の古田織部美術館に足を運びました。
京都は「北山」というオシャレな街にある小さな美術館です。
キリシタン茶の湯織部キリシタンか?」というテーマで、
展示も二部屋だけでしたが、冒頭の疑問には十分応えてくれました。

茶の湯カトリックのミサの所作はどんなところが似ているのでしょう?

▼茶席では食籠(菓子入れ)に盛られたお菓子を取り回していただくが、
カトリックのミサも、聖体皿に入れられたご聖体と呼ばれるパンを取り回していただく

▼茶のお手前では、茶碗の中に茶巾を入れ、茶筅を真ん中に入れ、その右に茶杓を伏せて置き、仕組んで、茶室に運び出しをするが、ミサにおいてもカリスと呼ばれる杯や白い亜麻布を仕組んで運び出す

▼濃茶の回し飲みの作法は利休が確立したとされるが、ミサでもキリストの血と見做されるワインを会衆が聖杯から回し飲みすることがある。

▼その際、いただいた後の飲み口を拭いて、茶碗を次客に回すが、ミサでも聖杯の飲み口を拭いて手渡す。

▼茶席では、返ってきた茶碗を湯ですすぎ茶巾で拭うが、ミサでも、拝領後に水ですすいだ聖杯を白い布で拭う。その時の所作が茶の湯と同じである。


茶の湯武者小路千家家元千宗守氏によると、
「利休が、ミサの所作から取り入れた」というイエズス会の報告がバチカンに残っているらしい。堺に住んでいた利休は、宣教師が畳の上でミサを行い、聖体拝領の儀式を行うのをよく見ていた。ワインを飲み回し、パンを取り回していただくことで信者同士の一体感が得られることに注目したのではないか?

 武者小路千家14代家元千宗守氏のヨハネ・パウロ二世教皇あての書簡より・・
「私は京都のカトリック系の学校に通っていたころを思い出します。すでに茶の湯の心得があったので、チャペルでのミサに出席するときも、茶道との共通点を少なからず発見しました。…司祭だけでなくキリシタンの武士や商人を相手に、千利休が語りあう機会は多かったはずです。妻(後妻おりき)と家族(娘)も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。…茶道への新たなとりくみを模索していた千利休は、ミサという最後の晩餐の再現に深い感銘を受けたのだと、私は考えます。」と書かれている。

また、回し飲みや所作だけでなく、キリスト教の影響とされるものに、利休の茶室の狭いにじり口がある。狭いにじり口は、刀を差したままでは入れない。武士といえども刀を置き、頭を下げて入ることになるので、キリスト教の「神の前ではすべての人は平等である」
あるいは「狭き門より入れ」という教えを取り入れたのではないかと解釈できる


ネットでは、教会側からも似たようなことが書かれていました。
教会やキリスト教信仰大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文が明瞭に描かれています。古田織部の指導で作られた織部焼には、十宇のクルス文、篦彫りの十字文が茶碗・鉢に施されていることは衆知のことです。 ・・・
キリスト教伝播の初期においては、教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待するなど信者の司教と布教のため茶道に開心を示す文書もあり、当時の宣教師の残した文書の中にも「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである。」(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ『日本巡察記』)として、すべての教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待することを指示しています堺において宣教師の行うミサの儀式を見ていたと考えるほうが自然ですし、ミサという「最後の晩餐」の再現と「聖なるもの」と同一になるという精神性に、己の進むべき道を見出し、自らの茶の湯の中心にその所作を取り入れたのではないでしょうか。
ただし、この展示では焼き物の十字架がすべてキリスト教に関連しているとは言えず、注文者が宣教師だったのかどうかはよく調べて見なければならない。単なる昔からあるデザインのひとつかもしれず、十字紋はどの文化においても基本的で原始的な文様の一つであるという見解をとっています。
せっかくですので、織部さんの作品、ネットからいくつか写真でご紹介させていただきます。今回の展示品ではありません。)
http://kizuna-maboroshi.doorblog.jp/archives/34914688.html様より、写真と文章を拝借しました。イメージ 2
気な印象を与える絵柄の茶碗早蕨という身近な画題。こちらは絵柄のせいで大分緊張感は和らげられています。胴にはよく見ると高麗物の御所丸茶碗によく見られるくびれが入っています。高台も角張っていて御所丸っぽいです。

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この茶碗は取り立てて巨大、むしろ茶碗よりは鉢として使った方がふさわしかったくらいかもしれません。「こやつをいかにして小さくするか」と。常人だったら恐れ多くてそんなことはできないわけでありますが、大胆にも織部はこれを十字に裁断してしまいます。そのうえで体積を減らすために少し一部をそぎ落ちしたうえで再びつなぎ合わせることで、この「十文字」は完成したのです。
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織部焼の懐石はそのほとんどがいかにも織部焼らしい緑釉が垂らされ、装飾豊かな絵付けがされています。この緑色こそ、盛り付けられた食べ物の旨さ、美しさを引き立ててくれる妙薬です。
この織部焼の装飾性は実に食の席を華やかに飾りたててくれます。
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一方、古田織部キリシタンであったか?についての資料はなく、最期は大阪夏の陣で、豊臣方への内通が疑われ、切腹自殺していることからもクリスチャンではない・・としている。(でも、切腹はこの時代の責任の取り方であるので・・それだけでキリシタンではないという見方はさほど説得力がないような気もする。)

織部は、なかなか魅力的な人物であったようです。詳しく知りたい方はこの記事を!

茶道とキリスト教に関しては、この牧師様が書かれている文章が最も詳しくまとめられています。
http://blog.goo.ne.jp/munehemmi/e/5ef70deaadf6c5a4614e518e455968c8
「日本の茶道へ及ぼしたキリスト教の影響」 
                                 茶道裏千家終身正会員    辺見宗邦(むねくに)(茶名:宗邦(そうほう))
 1 「茶の湯」と「茶道」と言う言葉
   茶を飲む風習は、奈良時代遣唐使や中国から日本へやってきた僧たちによって。茶の湯」という言葉が使われるようになったのは、15世紀半ば(応仁の乱前)頃から。それまでは「茶(ちゃ)湯(とう)」という用語が用いられていました。16世紀に入ると「茶の湯」が庶民にひろまり、中国的な名称「茶湯」は使われなくなりました。江戸時代初期になると、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った"道"に発展し、「茶道(さどう)」と呼ばれるようになりました。このように中国から伝えられた茶の風習は、日本で独自の発展を遂げ、日本の風土や日本人の心情に合った伝統文化としての茶道となりました。「茶道」は正称で、「茶の湯」は雅称ないし愛称とされ、両者が併用されて今日に至っています。最近では「茶道」は稽古、すなわち修行に、「茶の湯」はもてなしに重きをおいた表現として用いられてます。・・・以下サイトでご覧ください。
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織部焼きも知らない私でしたが、行ってみることで焼きものから人物へと興味が広がりました。
織部の茶室燕庵(えんなん)もすばらしいものです。

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光を取り込む多数の窓の美しさに感嘆します。公開されていないのが残念。
それと対照的なのが、光を絞って取り込む利休の待庵(たいあん)。
わびさびの世界になっています。

こちらに画像と説明がありました。

古田織部茶室「燕庵」 - KIRIN~美の巨人たち~

www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/140412/