徴兵から逃げた母子の悲劇を描くロシア映画「君たちのことは忘れない」

ロシア映画の書庫を作りました。
画像の美しさ、テーマの深遠さ・・芸術性の高いロシア映画にはまっています。
ただ、一般に観る機会が少ないのが残念。
今回観たのは、徴兵から逃げた母子の悲劇を描くロシア映画君たちのことは忘れない
解説
脱走兵息子ひたすらかばう母の愛を描いたドラマ
ソ連国内上映禁止となった問題作監督は「誓いの休暇」のグリゴーリ・チュフライ
あらすじ
1943年、独ソ戦のさなか、農婦マトリョーナは長男ステパンの行方不明の知らせを受け
悲しみにくれる。そしてまだ17才の次男ミーチャ(アンドレイ・ニコラエフ)にも召集が。
だが、新兵が集合する駅が空襲にあい、重傷を負ったミーチャを母親は必死で救い出し、
屋根裏部屋に隠す。それは母の愛ゆえのなせるわざだったが、戦死兵として処理された
ミーチャも見つかれば処刑の運命である。
  不安な毎日が続く中、捕虜となり生きていたステパンが生還を果たす。
が、ミーチャの存在を明かすわけにはいかないマトリョーナはステパンと言い争い
家から追い出してしまう。戦争は終わった。しかしマトリョーナ親子に平和は訪れない。
マトリョーナは思い余って神父に相談するが、その反応は冷たかった。
そんなある日、ステパンから結婚し子供ができたという電報を受けた彼女は喜びの余り
緊張の糸が切れて心臓発作を起こしミーチャの膝の上で死ぬ。
そしてミーチャは自首をするのだった。

徴兵から逃げたい=死にたくないというのは、人間の生存本能というか
根源的な欲求。母親は息子の命を守りたいのは当然のこと。
夫を失い、長男も戦争に取られた母親なれば、まだ17歳の息子まで
徴兵されるのはたまらない。
しかし、人間は社会的存在であり、
その枠の中でしか生きることができない。
徴兵から身を隠すというのは反社会的行為であり、人の目を恐れ、
暗がりの中でしか生きられな母子の暮らしは、まさに「泥沼」です。
*この映画のロシア語のタイトルは『泥沼』

命永らえても、本当にこの母子は幸せだと感じることはあったのか?
息子もただ飼い殺しのような状況で生かされているだけ。
ミーチャには仕事も恋愛も人並みな幸福を求めることもできない。
これは不幸なことです。

命の意味、生きる意味をも考えさせられました。

聖書では、マルコによる福音書にキリストは「安息日に律法で許されている
のは善を行うことか?悪を行うことか?命を救うことか?殺すことか?」
命を救うのと殺すのとどっちか?と突きつけるような問いかけをしている。
だから母親が息子の「命を守ろう」としたことは 正しい。

「命」とは何か。
命が ただ「生きながらえる」という意味だけではなく、
どのように生きるかという「生き方」の問題も含むものとして捉え直すと、
どうであろうか?

人が社会的存在であり、そのルールの中で生きなければならないのなら、
そのルールを犯しているために、後ろめたさと罪悪感を持ってコソコソ
生きるのは辛いことだろう。
映画では、ミーチャの場面は暗く、捕虜から帰ってきた兄ステパンの場面は
明るく描かれる。母に追い出されても自分の生き方を見つけ、伴侶と新しい
人生を築いていく長男ステパン。
「生かされているだけ」というミーチャの人生は対照的です。

怯えるようにその日の命と向き合いながら生きている次男と母親には、
将来的にどう社会に折り合いをつけるかを考える余裕はなかった。
全ては戦争という特殊な環境下でのできごと。
このような不幸も戦争の作りだす悲劇でしょう

ミーチャが自首してからどのように生きたかは描かれていません。
人々の侮蔑の目に耐えて生きねばなりません。
ロシアの深い雪景色の画像が美しく、この悲劇を更に切なく感じさせます。
生きたいという誰もが持つ切実な願いと、社会的縛りの中でしか生きられ
ない人間の戦争の悲劇を描いた深い映画でした。

ただ、ここまでで終わらせたくない気がします。
この作品が公開禁止になったのはなぜか?

生きたいという切実な願いは誰もが求める生存権です。
戦争は、人間の生きたいという生存欲求や平和に生きる権利に反することを
要求します。
このような悲劇を起こさないためにも現憲法の改悪には反対しなければ
いけません。

平和的生存権というのは、戦争によって、日本の人々も世界の人々も
殺されない権利がある、という意味
言い換えれば、日本国憲法前文の「平和的生存権」とは、
「殺されない権利」であると同時に、「殺さない権利」
、つまり戦争で人を殺めたり、それに加担しない権利である、
と言えるのです。