信用ならない大人「岸信介」by鈴木瑞穂さん


「敗戦でとてもニヒルになりました。
大人の言うことなんて、
信用するもんかと思っていました」。
自分は安全な場所にいて
青少年を戦地へと駆り立て、
敗戦後は手のひらを返したように
「民主主義」を唱え始めた。
そんな「信用のならない大人」の一人として、
日本のかいらい政権・満州国
総務庁次長として辣腕(らつわん)を振るった
岸信介元首相を挙げる。
満州では、
自分たちに都合よく法律を作り、
東条英機内閣では
商工相として戦争を遂行した人物です。
それが戦後になって『民主主義者だ』という。
ウソつけ、ですよ」

この国はどこへ行こうとしているのか
 平成最後の夏に… 俳優・鈴木瑞穂さん
 2018-8-14 毎日 夕刊

憲法は戦死者の遺言

長年の演劇界への貢献が認められ、昨年、第45回日本新劇製作者協会賞に選ばれた。東京都内で開かれた授賞式で、小説「ドン・キホーテ」で知られるスペイン人作家セルバンテスの言葉を引用しながらスピーチした。憲法9条が掲げる非戦の理想を引き下ろし、改憲を目指す勢力への激しい批判である。「夢だけを見て現実を見ないやつは度し難い。現実だけを見て夢を見ないやつはもっと度し難い。だが、救いようのないほど度し難いのは現実を夢に近づけようと努力しないやつだ」

俳優としてのキャリアを66年積み重ねてきた。

「俳優は、常に時勢に敏感でなければいけません。犯罪者の役をやれば、なぜ、罪を犯したかを問い続ける。ただ、台本に書かれたものを言葉にするのではなく、役を通して社会や時代を見なければ」

 この季節の晴れた夏空を見ると、あの日を思い出す。73年前の8月6日朝、広島湾に浮かぶ江田島から7・5キロ離れた広島市内の光景だ。海軍兵学校で学ぶガチガチの軍国少年だった。

「あの日も快晴でした。朝の海軍体操を終え、モールス信号を送る通信の授業が始まって間もない頃、突然、真っ白な光に包まれ、まるでもう一つの太陽が照ったようでした。地鳴りのような音に続き、震度3ほどの揺れ。最初は、対岸の呉市にある連合艦隊の火薬庫が直撃弾を受けたのでは、と思いました」

学校近くの古鷹山(標高394メートル)の中腹からは、海を隔てた広島市内が見えた。ダークオレンジ色をした巨大な泡のようなものが市内を包んでいた。「砂糖菓子のカルメ焼きのような形」にたとえる。それが、どんどん上昇して、やがて白いきのこ雲へと変わっていった。

空からは乳児の産着の燃えかすや新聞紙がひらひらと舞ってきた。教官からは、降ってきた物に触ったり、雨に打たれたりしてはいけないという注意があった。「教官たちは、何が落とされたのか、すぐにわかったんでしょう。でも、ラジオの発表は『新型爆弾』でした。当時の私の日記を見ると、『人間が人間をこれほどおとしめることができるのか』と、米国への怒りを書いています」

日本統治下の朝鮮半島で育った。中朝の国境沿いに住み、父親は朝鮮人の水産専門学校で教える教員。通った旧制中学は国境を越えた旧満州(現中国東北部)にあった。1943年に海軍兵学校に入るまで日本の地を踏んだことはなかった。

「敗戦でとてもニヒルになりました。大人の言うことなんて、信用するもんかと思っていました」。自分は安全な場所にいて青少年を戦地へと駆り立て、敗戦後は手のひらを返したように「民主主義」を唱え始めた。そんな「信用のならない大人」の一人として、日本のかいらい政権・満州国総務庁次長として辣腕(らつわん)を振るった岸信介元首相を挙げる。「満州では、自分たちに都合よく法律を作り、東条英機内閣では商工相として戦争を遂行した人物です。それが戦後になって『民主主義者だ』という。ウソつけ、ですよ」

復員後に身を寄せた岩手県陸前高田市の伯父の勧めもあり、京都大経済学部に進学した。そこで新憲法に出合った。質の悪いザラザラの紙に印刷されていた条文を読むと強い衝撃を受けた。「日本は戦力を放棄する。もう二度と戦争をしない、と書かれている。なぜこんなに優しい言葉で、一人一人の人間に愛情を注げる憲法が生まれたのか。感動したというより、未知のものを見た驚きがありました。兵学校の2、3期上は戦地に赴き、無残に死んでいった。この憲法は、戦争で死んだ人たちの遺言に思えたのです」

京都大在学中の冬のある日、京都で見た「劇団民芸」の公演。上演されていたのはロシアを代表する劇作家、チェーホフの4大劇の一つ「かもめ」だった。芸術に翻弄(ほんろう)される人々の、愚かだがいとおしい営みを描いた作品だ。「登場人物がみんな生きる目的を持っていて、人間というのは、こんなにも色彩豊かに生きるものなのかと思いました。一人でも多くの米兵を殺し、立派に死ぬんだというそれまでの自分は何て貧しい考え方だったのか。人間はもっと豊かに一人一人が生きている。そう思うと涙がボロボロ出てきました」

公演後、劇団の創設者の一人で俳優の宇野重吉さんを楽屋に訪ねた。大学を中退し、演劇の道を歩んだ。

「演劇は人間に対する一つの賛歌なんです。人間のあり方に敏感であってほしい。ただ、『感動した』『つまらなかった』という感想だけでなく、自分がなぜそう思ったのか、この演劇は自分にとって何なのかを問いかけてほしい。そうした『問い』を支えるのは知性や理性です。それがなくては、私たちも芝居ができなくなってしまう」

人間の尊厳を踏みにじるヘイトスピーチにはかつての自分を見るようで心が痛むという。「差別意識が生まれる根源は、どこにあるのでしょうか。どこに理性があるのでしょうか」

朝鮮半島で暮らした少年時代。「当時の僕の中にも、日本民族というのは『世界第一級の民族だ』という意識があった」と振り返る。朝鮮の人たちは、神社の前で整列し、「皇国臣民ノ誓詞」を毎朝言わされていた。「我等は皇国臣民なり、忠誠以(もっ)て君国に報ぜん」と。朝鮮語を使うと殴られる。それが日常だった。

芝居を通じて「本当に人間らしく生きることとは何か」というテーマを掲げる「劇団銅鑼(どら)」を創立したのは72年だった。しかし、現代はポピュリズム大衆迎合主義)や、知識や教養を軽視する「反知性主義」が幅を利かせている。「国会を見てください。質問に対し、正面から答弁しない。演劇では、相手に対して、心に響くせりふを返さなければ、ストーリーが成り立ちません」。やがて、演劇が時代にのみ込まれて理解されなくなる日がくるのではないか。それが怖いと言う。

大学時代の師は、財政学の権威の島恭彦氏だった。「当時は、島さんと喫茶店でコーヒー1杯で何時間も議論しました。島さんが言っていました。『マルクス資本論は壮大なドラマなんだ』と。搾取はどこから生まれ、貧富の差はどう生じるのか。そして人間とは何かをドラマチックに解説してくれるというのです。資本論の講義はドイツ語で受けました。マックス・ウェーバーケインズも勉強しましたね」

家には授業で使ったドイツ語の原書が残っている。「引っ張り出して、もう一度読んでみたいなと思っています」【庄司哲也】