W.M.ヴォーリズさんのこと

11月に、W.M.ヴォーリズについて、仲間内での発表があります。
写真の整理。レジメや発表の準備・・集中したいので、勝手ながらブログは発表が終わるまでお休みさせていただきます。
 
参考までに・・・
<W.M.ヴォーリズのドラマチックな生涯>
W.M.ヴォーリズは1880年、アメリカ、カンザス州生まれ。
両親は敬虔なクリスチャンで、ヴォーリズ自身も両親の下で健やかなクリスチャンとして成長。
青年ヴォーリズの夢は建築家になることでしたが、大学2年の時、パワード・テイラー女史の講演に感銘を受け、自分も外国伝道に身を捧げようと決意します。
明治38年、24歳のヴォーリズは、独りで船に乗って高校の英語の講師として近江八幡の地を訪れます。彼は働きながら、この地にキリスト教の種をまこうと考えていました。
放課後の時間を使ってのバイブルクラス(聖書講座)は、彼の親しみやすい人柄と真剣な聖書の話に、人生を模索していた若い生徒達の心は惹きつけられ、
百人以上の生徒が参加。
 
しかし、この人気が仇となり、高校講師の仕事は2年で解任させられてしまいます。仏教色の強い地でのキリスト教への反発でした。

でも、ヴォーリズのすばらしさは、辞めさせられても、諦めてアメリカに帰国することなく、YMCA会館に寝泊まりしながら、卒業したばかりの教え子、吉田悦蔵と共に、伝道活動を続けたことです。

近江八幡に根を下ろして、どのように生きていくか?あれこれ思案した後の新たな出発。それが、かつて、彼が夢見ていた建築の仕事であったのです。

失職し、独力で生計の道を開かねばならなくなった時、かつて、建築家になろうとして費やした努力と知識が彼を助けることになりました。
 
 この不思議な運命は、自分の夢を断念してまで伝道に尽くそうとしたヴォーリズの心を汲んだ神様が、彼の運命を転換させたように思われてなりません。
 
明治41年ヴォーリズはいったん帰国し、建築家チェーピンを伴って日本に帰り、吉田悦蔵と3人でヴォーリズ建築事務所を設立します。
ヴォーリズを慕う教え子の幾人かもこの仕事を手伝います。(生徒達から信頼されていたヴォーリズ像が浮かびます。)当時は、現在のように、建築家としての制度が確定していなかったため、彼らは、ヴォーリズとチェーピンの下で、建築の勉強をしながら、仕事を覚えたのでした。
 

ヴォーリズは、毎年、夏には軽井沢を訪れ、外国人宣教師達と交流。彼の人柄への信頼から、建物の依頼を受けることも多く、宣教師の住宅、ミッション系の学校や礼拝堂、教会をはじめ、全国で1600ものヴォーリズ建築が日本各地に設計されました。

 また、ヴォーリズの良き理解者であるハイド氏が、メンソレータムの販売権を無償で提供、こちらも爆発的人気商品として近江兄弟社の事業を大きく支えました。
大正8年、38歳で、建築の通訳を通じて知り合った子爵令嬢の一柳満喜子と結婚。日米関係が悪化してからは、帰国せずに、一柳の姓を名乗り、一柳米来留(メレル)として日本に帰化しました。

1957年、ヴォーリズは軽井沢でくも膜下出血のために倒れ、1964年5月9日、83歳で昇天。翌年、近江八幡に貢献した彼の偉業が認められ、近江八幡名誉市民第一号となります。
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今年はヴォーリズ召天50周年。今も近江八幡には彼の建築物や記念館が多く残っています。  ヴォーリズが心から愛した近江八幡では、10月4日から、町中に残るヴォーリズ建築を会場に、彼の遺した業績をテーマ別に展示、近江八幡の美しい街並と共に楽しめる企画が進められています。ヴォーリズに興味のある方はぜひお出かけください。