ぼくはそもそも「愛国者」にならないといけないとは思わない
ぼくはそもそも「愛国者」にならないといけないとは思わない
え~、今回のネタは、少し前に「左翼の陥りやすい傾向」(=欠点)として挙げた
「大きな敵(=主張が真っ向から対立する者)よりも、おんなじ側にいる人たちとの細かい違いに気にとられて
批判のエネルギーを間違ったトコに注いでしまう」
…というコトの典型なので、そんなことをしてる時間があったら
大きな敵を批判せんかい!…と、自分にツッコみつつ、
そんでも、けっこう普遍的なテーマに関することなので、書いてみたいと思います
(ひとさまのtweetから↓)
「大きな敵(=主張が真っ向から対立する者)よりも、おんなじ側にいる人たちとの細かい違いに気にとられて
批判のエネルギーを間違ったトコに注いでしまう」
…というコトの典型なので、そんなことをしてる時間があったら
大きな敵を批判せんかい!…と、自分にツッコみつつ、
そんでも、けっこう普遍的なテーマに関することなので、書いてみたいと思います
(ひとさまのtweetから↓)
ぼく、松尾さんが「戦争法案」に反対していることや憲法9条を価値あるものだと考えてることは大歓迎です
けれども、”反戦運動をする人こそが真の『愛国者』である”という訴え方については
根本的な疑問があるんです
こういう訴え方は、松尾さんに限らず、最近、非右翼である人たちの間にけっこう広がってるようです
この場合、「愛国者」という右翼の専売特許のような言葉を非右翼の人が使うのは
「右翼的な愛国」を批判するため…とも思えるんですが、それと同時に、
「愛国」を唱える右翼を(多少なりとも)納得させるために
わざわざ「愛国(者)」という言葉を用いてるような気がするんです
(→これをわかりやすく言うたら「相手の土俵に乗る」ってトコですかね…)
ぼくは右翼が唱える「愛国」は「売国」じゃねぇか…という皮肉をときどき使いますけど
ぼくはそもそも、人が「愛国者」にならんとあかん…とはまったく思ってないので
右翼と内容が異なる…とは言っても、「これがボクの考える『愛国』だ…」という文章に出くわすと
もうそれだけで、なんかイヤ~な感じがしてまうんです
(それは多分、ぼくの頭のなかで「愛国」という言葉が右翼と結びついてて、
マイナス言葉になってしまってるせいもあると思います)
そんでもぼくはやっぱり、「愛国」をよきもの…と捉えることにどうも違和感がありまして
「愛国語り」として左翼的なことを主張されると、どうにも気になって
こうしてエントリーまで書いてしまうんです
人が何かを愛するか愛さないか…なんてことは
そもそも他者から強いられることではありません
(だからぼくは、第一次安倍内閣によって教育基本法が改定され
「我が国と郷土を愛する」ことが「教育の目的」とされてしまったことは大きな間違いであると考えてます)
とすると、国を愛することがよいことで、国を愛さない(愛せない)ことは悪いこと…という前提が
そもそも成り立たないので、いくら主張が正しくとも
「愛国者ならこうする…」という訴え方は、その出発点からズレてる…と思わざるを得ません
…と言いつつ、松尾さんは最後に
けれども、”反戦運動をする人こそが真の『愛国者』である”という訴え方については
根本的な疑問があるんです
こういう訴え方は、松尾さんに限らず、最近、非右翼である人たちの間にけっこう広がってるようです
この場合、「愛国者」という右翼の専売特許のような言葉を非右翼の人が使うのは
「右翼的な愛国」を批判するため…とも思えるんですが、それと同時に、
「愛国」を唱える右翼を(多少なりとも)納得させるために
わざわざ「愛国(者)」という言葉を用いてるような気がするんです
(→これをわかりやすく言うたら「相手の土俵に乗る」ってトコですかね…)
ぼくは右翼が唱える「愛国」は「売国」じゃねぇか…という皮肉をときどき使いますけど
ぼくはそもそも、人が「愛国者」にならんとあかん…とはまったく思ってないので
右翼と内容が異なる…とは言っても、「これがボクの考える『愛国』だ…」という文章に出くわすと
もうそれだけで、なんかイヤ~な感じがしてまうんです
(それは多分、ぼくの頭のなかで「愛国」という言葉が右翼と結びついてて、
マイナス言葉になってしまってるせいもあると思います)
そんでもぼくはやっぱり、「愛国」をよきもの…と捉えることにどうも違和感がありまして
「愛国語り」として左翼的なことを主張されると、どうにも気になって
こうしてエントリーまで書いてしまうんです
人が何かを愛するか愛さないか…なんてことは
そもそも他者から強いられることではありません
(だからぼくは、第一次安倍内閣によって教育基本法が改定され
「我が国と郷土を愛する」ことが「教育の目的」とされてしまったことは大きな間違いであると考えてます)
とすると、国を愛することがよいことで、国を愛さない(愛せない)ことは悪いこと…という前提が
そもそも成り立たないので、いくら主張が正しくとも
「愛国者ならこうする…」という訴え方は、その出発点からズレてる…と思わざるを得ません
…と言いつつ、松尾さんは最後に
国の最も大切な要素が民であるならば、愛国は、即ち「愛民」なのだということを心に抱いて、未来の「日本人らしさ」を創造していくことこそが、唯一の道であると思います。そう、この道しかないんです。
”国の最も大切な要素が民であるならば、愛国は、即ち「愛民」なのだ”…と
めっちゃええことを言うてはりますので、ぼくがこのエントリーで書いたことは
松尾さんに対する「イチャモン」の類になってしまってる感がありますが
「日本人らしさ」という言葉も、やっぱりぼくにはちょっと引っかかりまして
やっぱり、「細かいトコばっかりに目がいく」ぼくの悪い癖は、なかなか直りませんわ…
めっちゃええことを言うてはりますので、ぼくがこのエントリーで書いたことは
松尾さんに対する「イチャモン」の類になってしまってる感がありますが
「日本人らしさ」という言葉も、やっぱりぼくにはちょっと引っかかりまして
やっぱり、「細かいトコばっかりに目がいく」ぼくの悪い癖は、なかなか直りませんわ…
「この道しかない」とは、彼奴と同じ事を言ってるんですね。
好き嫌いは、あっても、お互いを認め、尊重し合うのであれば、「~しか無い」って言葉は出てこないと思いますよ。ほとんどのものが不完全で、色んな可能性を持ってるハズなんで、多様な道、多様な価値観を持つことは大事だと思います。
自分の主張が正しいと思うなら、それを「愛国」で補強する必要もないと思うので、やっぱり、こういう訴え方はやめた方がよいと思いますね。