震災と憲法 原発事故の被害を通して
震災と憲法 原発事故の被害を通して
今回は3日までの3回分を紹介します。
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河北新報 2016年5月1日
◎(1)生存権/すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
国民の自由や権利を守る憲法は、われわれの暮らしに密接に関わる。安倍晋三首相が改憲に意欲を見せるなど、憲法を巡る論議が活発化する。3日は憲法記念日。東日本大震災で被災し、東京電力福島第1原発事故の被害を受けた東北の現場を通し、憲法を考える。(震災取材班、米沢支局・相原研也、福島総局・高橋一樹)
<延長に次ぐ延長>
志津川湾を望む集会所に4月21日、仲良しの女性10人が顔をそろえた。いつものお茶っこ会。話題は熊本地震に向く。「支援物資に並ぶ姿を見て涙が出た」。命からがら避難し、食うや食わずで過ごしたあのころの自分たちを重ねる。
仮設住宅の使用期間はそもそも最長2年3カ月。かりそめのはずが、延長に次ぐ延長。「不満を口にしてもどうにもならない」「いい生活をさせてもらっている」。5年間の苦労を封印するかのような笑顔。「みんな苦労してきたもんね」。一様に深くうなずいた。
菅原とく子さん(74)の仮設住宅。「トトン」。床から時々小さな振動が伝わる。「仮設はね、床が全部つながっているの」。近隣の生活音は日常的に響く。戸を閉める音、ポストから郵便物を取る音。良くも悪くも、もう慣れた。
1人暮らし。壁に子と孫の写真が並ぶ。「寂しくも心細くもない」と気丈だ。年金は2カ月で十数万円。「家計は大変だけど、子どもたちに迷惑を掛けたくない」。今年夏以降に災害公営住宅に移る。
<老朽化も深刻に>
同じ仮設団地の佐藤怜子さん(84)は次男夫婦、孫と4人で住んでいた。4畳半二間。「とても大人4人では寝られない。トイレに行くたび次男を踏んづけた」と苦笑い。次男の妻と孫は約2年前、町内のアパートに移った。
買い物のたびに孫を呼ぶ。「車で送ってとか、迎えに来てって。本当に嫌になる」
河北新報 2016年5月2日
◎被災地から考える(2)26条 教育を受ける権利
<机上の水泳授業>
国語の教科書を読む声に重なり、隣の音楽室から歌声が流れ込む。プレハブ校舎の教室を隔てるのは薄い壁1枚だ。
「隣の教室から声が聞こえる」「上の階の足音やドアを閉める音が響き、集中できない」。生徒たちは口々に不満を漏らす。
仮設校舎までほとんどがバスで通学する。登下校時、校門前に9台が列を作る。楽しいはずの放課後は、常に時計とにらめっこ。
「バスを気にしないで、放課後に友達と遊んだり、勉強したりしたかった」。3年の佐藤良さん(14)は口をとがらす。
佐藤さんは渡波小でも3年間、仮設校舎だった。「本物の校舎」で学んだ記憶は薄れつつある。
今の渡波中には体育館もプールもない。別の学校の体育館を借りたり、水泳の授業は机上で理論を教えたり。「工夫してやっていくしかない」と中塩栄一校長は言う。
部活動では、サッカー部と野球部、陸上部が、小学校の小さな校庭を分け合う。フットサル用のポストに、野球のボールが転がってくる。100メートル走のタイムも計れない。
子どもたちは不自由と折り合いながら、制約の多い学校生活を送る。
集団移転地に建設中の新校舎は来年3月末に完成予定だ。卒業式には間に合いそうにないという。仮設校舎から卒業生を送り出すのは、6年連続になる。
被災した岩手、宮城、福島3県の公立小中高校で仮設などの仮校舎を利用するのは3月時点で71校に上る。仮設住宅から通う子どもも多く、学習環境が学校でも家庭でも、当たり前の水準に回復していないのが実情だ。
<地域の学校消滅>
人口減が進む被災地では学校の統廃合が相次ぐ。
宮城県女川町の離島、出島(いずしま)の女川四小と女川二中は2013年3月、地域と歩んだ歴史を閉じた。震災当時は28人の児童生徒が在籍した。
ホタテ養殖業の木村吉則さん(60)の長女(17)と長男(15)は、島から避難したまま本土の学校に通う。仕事のため妻子と離れて島に残った木村さんはつぶやく。「子どもたちは戻りたいとも言わない。家族で一緒にいたいけど、島にはもう何もないから」
出島からは病院も商店も消えた。そして子どもたちが生まれた地で学び、育つ機会も。
◎被災地から考える(3)22条 居住の自由
<危険区域に指定>
穏やかな遠浅の海が好きだった。波打ち際を歩いては、貝殻を拾い集めた。生まれ育った土地で、年を重ねていくと思っていた。
「戻りたい。戻れる」
市の仮設住宅に夫と母と共に入居した5年前。帰郷を疑わなかった。
「結局、住み慣れた土地に帰ることはかなわなかった」。震災から5年が過ぎ、吹っ切れたように言う。
市は2011年12月、沿岸一帯1214ヘクタールを災害危険区域に指定した。荒浜地区には約740世帯が暮らしていたが、自宅の再建は禁じられた。
庄子さんは住民有志と現地再建を認めるよう、市に訴え続けた。「荒浜を廃虚にしたくない。土地をかさ上げすれば、居住を認めてくれるはず」。指定後も希望を捨てなかった。
安全を最重視する市の姿勢は一貫していた。仮設住宅暮らしが長引くにつれ、気持ちは徐々に諦めに傾いた。
震災から3年が過ぎたころ、移転先を探しだした。15年秋、新居の建築を始めた。古里に住みたかった。住む場所を選ぶ権利が震災で揺らぐ。
<支援受けられず>
災害危険区域内で再建を認められても、行政の支援から漏れる被災者もいる。
今年の年始早々、再建費用の支援制度を活用しようと市の窓口を訪れ、がくぜんとした。市は盛り土など一定の条件を満たせば災害危険区域内の再建を認めるが、該当する補助制度はないと告げられたからだ。
区域外に移る場合は、最大約800万円を助成する国の制度を利用できる。区域外から区域外に移転して再建する際は、最大約450万円の市独自の利子補給制度がある。
「古里を再生したくて、戻ることを決めたのに…。支援があれば、戻る商店主も増えるはず。どうして支援の差があるの」
制度自体が、自由に再建場所を決める壁になっているようにも思えた。
4月下旬、仙台・荒浜地区の庄子さんの自宅跡。敷地は周囲の更地と溶け合う。「どこが誰の家だったか分からなくなるねえ」。庄子さんは寂しそうにつぶやいた。