キリスト教会からの警告の言葉②

①からの続きです
国家神道の教育への介入

 そのような宗教、思想を硬く確信犯的に信じている人たちが、今度は教育現場にも介入してゆくとどうなるでしょうか。
 今政治の実権を取っている人たちの言うとおりの教育を行うとすれば、文字通り国のために命をささげるような子どもたちを作ろうということになるでしょう。
 現に、総理大臣が高く評価した(これも本来、与党の政治家が特定の教科書を推薦するというのもあってはならないことですが)社会科の教科書を、あろうことか私が勤務している学校で採用して、現に今使っていますが、この教科書を見ると、例えば公民の教科書では、確かに個人の自由よりも、自分が属している社会の集団行動や集団の道徳の方を優先させる考え方が貫かれています。性別や性的指向に関係なく人権を主張したり、仕事を持って働くということが否定されていますし、標準的な家族のあり方があるかのようにイメージを刷り込もうとしていて、多様な家族のあり方を認めていません。
 そして、何より、現在の憲法よりも明治憲法の方がいかに優れているか、そちらの方が当たり前といった論調なのですね。
 歴史の教科書を見ると、豪族たちがそれぞれの土地で勢力争いをしていたことも、それぞれの神があり、それが徐々に天皇制に集約されていったことも、信長・秀吉・家康が次第に天下統一を図り、次第に日本の姿ができていったことよりも、まるで古代から日本という国があらかじめ独立国家であったかのように書いてありますし、各章の各時代に締めくくりに「日本はこうして独立を守った」といちいち強調してあります。「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」という文字も踊っていますし、日本の被害ばかりで加害のことは書いていない。
 そして、何より、私たちクリスチャンにとって痛いのは、日本人の宗教観は一神教からは理解されない。本来日本人の宗教は神道であるということを、教科書の冒頭から決めつけられているという点だということです。

▼戦うことを学ばせるhttp://ichurch.me/sermon2016/2016sermon-graphics/20160801fireworks.jpg

 まだ教科書にこのようなバリエーションが出てきたというだけでも、この有様ですが、今後、政府は「道徳」という科目を大幅に強化し、正式な教科にして成績もつけるという方向に出てきます。もう再来年(2018年)からそのような道徳科が実施されるべく計画が進んでいます。
 その具体的な内容についてはまだ詳細が決まっていないようで、とにかくやるということが先に決まっているような状況ですが、おそらく今の時点で調子付いている政治家たちの発言ですが、一人一人の基本的人権よりも国家の目的の方を優先する。究極的には国家のために自分の命を捨てることも美化してゆく方向になることは、簡単に予想できます。
 
だいたい学校で道徳に成績をつけるということはナンセンスで、そういうことをすれば、形や言葉だけで大人たちが喜びそうなことを言う嘘つきばかりを生み出すことになるでしょう。嘘が簡単につけない子は、精神的にかなり追い込まれて、心が破壊される子も出てくるでしょう。
 政府にとっては、形ばかりの道徳じゃないかという批判は全く気にならないと思います。と言いますのも、政府は国民が「形だけ」従ってくれるだけでいいからです。
 これは、明治以来、太平洋戦争に至るまでの日本の宗教に対する政策がそうだったんですが、日本では信教の自由ということはちゃんと守っているという建前だったんですね。
 「あなたが何を信じるかは全く自由である。信仰以前の国民の義務を果たしていれば、心の中で何を信じるかは自由である」という論理です。
 もっと具体的に言えば、心の中で戦争に反対するのは全くオーケーだということです。ただし、国民の義務として戦争を命令されたらちゃんと戦争に参加しなさいよということです。
 国家にとっては個々人の内面は全く自由で構わないんですね。ただ形の上でそれを表現することは禁じられるし、心では反対していてもお構いなしで、形の上で完璧に命令を遂行すればそれでいいんですね。
 ですから、嘘でも何でもいいから、国が「戦え」と言ったら、命令通りに動くということしか国は望んでいない。
 しかし、人間の体と心が無関係に生きているわけではありません。
体が命令に従うことを強要されていて、それに反抗すると罰せられるということを繰り返していると、内面まで変化せざるをえないでしょう。
 あるいは、内面を変えることのできない者は、必ず精神のバランスを崩して病に陥ることでしょう。精神障がいに陥る者も当然たくさん出てくるでしょう。しかし、障がいを患っても、国家にとっては役に立たない存在ですから顧みられることはありません。むしろ、国家も国民も「役に立たない人間」として、このような障がい者は殺したほうが良いと考えるようになるでしょう。
 そのように教育の力で持って行くことは可能だということです。

▼いばらの道

 ですから、私たちがこれから生きてゆく道は、いばらの道です。
 私たちは、国籍や民族や宗教の違い、健常者であるか病や障がいを持つ人であるかと関係なく、地球上のどの人も神さまの愛の中にあることを信じ、愛される喜びを伝えたいと思っている人間です。
 「
敵を愛しなさい」と教えられ、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と教えられている人間です。何よりも主の平和こそが、この社会で大切なものだと信じている人間です。
 本日の聖書の箇所にも、武器を打ち直して農具とし、戦うことよりも食べて行くことを大切にしよう、そして一緒に主の光の中を歩もうと記されています。
 「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2:4)と書いてあるこの言葉は、戦いを経験し、痛み苦しみ果てて、そのあとに出てくる言葉です。
 今の私たちの国は、この言葉とは全く逆の方向に進んでいます。そして、やがて戦争が始まり、私たちは非常に苦しい時をこれから経験することになるでしょう。
 しかし、何年先のことかわかりませんが、やがてそのような苦しみの時が終わり、多くの人が悲しみ疲れて後悔する時、私たちが信じる「もはや戦うことを学ばない」という言葉が再び息を吹き替えす時が来るでしょう。
 ですから、それまで私たちはこのみことばを決して忘れない者として生き続けなくてはなりません。

▼戦わないことを学ぶ教育

 最後に、京都新聞に掲載された、ある人の記事を紹介したいと思います。同志社大学の大学院にシリアから留学してこられているハルドゥーン・フセインさんのインタビュー記事です。シリアというと、今まさに戦争の渦中にある国ですね。
 これを読むと、彼が2011年と言いますから今から5年前になりますが、その年に戦争が始まるまで、自分の国は「比較的安全な国」だと思っていたそうです。「母国が目の前で破壊されることは、もっとも悲観的な者でさえ予測していなかった」とあります。
 しかし、私はこの人がどういう経緯で同志社大学に来られることになったのか、詳しい経緯は知りませんが、戦火で大変なことになっている母国を離れてきて、彼は希望を抱いていることが、この記事の最後でわかります。
 記事の末尾の部分を読んでみたいと思います。下から2段目の終わりの方からです。
 「争いが始まり、6年近い月日が経とうとしている。泣き叫んでばかりはいられない。歴史的な苦境を乗り越え平和に至る道を見つけるべきだ。
 シリア内戦は政治、経済、社会の要因が絡まり、極めて複雑になった。また、教育制度、特に宗教教育には戦争前から大きな欠点があった。かつての宗教は宗派間の共存は必ずしも理想的でなく、ほとんどの人が宗教を正しく理解していなかった–今、多くのシリア人がそう思うようになった。宗教観の違いを受け入れる教育、ナショナル・アイデンティティーと宗教的アイデンティティーの関係、メディアで流れた自由、民主主義などを深く考えさせる教育はなされていなかった。戦争を終わらせ、国を再建するには、このような課題を直視しなければならない
 この人は、泥沼化しているシリアの内戦から、「戦わないことを学ぶ教育」の大切さを学んで、それを母国に持ち帰りたいと望んでいるのでしょうね
 ここには、何年先のことかわかりませんが、戦争にこれから向かって行こうとしている我々の国の未来の姿があると思います。
 戦争に向かって行き、苦しみ、悲しみを経て、また平和を望むときが来るでしょう。その時、私たちの信じている聖書のみことばの真価が問われる時が来るのではないでしょうか。
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