東京&東北旅行(2)東北の叔父と叔母を訪ねる。食べ物のこと放射能のこと…

東京の親友の家に一泊した翌日は
      盛岡に出張していた次男と「くりこま高原」で待ち合わせ。
毎年、野菜やお米を送ってくれる叔父と叔母に会いに行った。

叔父は中学校の英語教師から校長になった方だが、親しみやすく穏やかな人柄。
いつも、叔父の笑顔を見るとこちらも笑顔になってしまう。
退職後は晴耕雨読で、祖父と共に自分の畑で農業を営む日々…。

先に駅に着いた次男は、ほとんど会ったことがない叔父がわかるかなぁ?
と思っていたが、「顔を見てすぐわかったよ~」と。
叔父の家は駅から車で40分。
車がなければ行けないところにある。

叔母は末っ子なので私とは9つ違い。
大学時代は東京で、私の家族と一緒に暮らした。
うら若き乙女であった叔母は「おばさん」と呼ばれるのが恥ずかしい。
「お姉ちゃんと呼んで」と言われ、叔母が結婚するまでそう呼んでいたっけ…。

そんなことを思い出したのは、叔父が
「mimiちゃんは、炊き込み御飯が好きだったから…と朝早くから張り切って作っていたよ。」と教えてくれたから。
そうかぁ…小学生の頃は炊き込みご飯が好きだったのか…。
そんなことまで覚えていてくれていた叔母……💕😊

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食卓には、叔父が作った無農薬のカボチャやキュウリ等、畑の野菜を使った
お料理や煮物、サンマや栗、私達のために山形まで買いに行ってくれたという
林檎が並ぶ。

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あちこち駆け回って用意してくださった手料理…まさしく「ご馳走」だと思う‼

叔父叔母の畑は幸い汚染されなかった地域だったので、
震災後もずっとお米や野菜を送ってくださっている。
初めは「測定して放射能不検出だったけど、送ってもいいですか?」と連絡があった。こんなことを、叔母に言わせる事故が恨めしい。
送っていただいたお米や野菜、りんごはとりあえずデータにもなるので
奈良の測定所で再測定。
もちろん不検出で、息子たちにも安心して食べてもらえた。
でも、偶々、叔父のところは汚染されなかったというだけのこと、
汚染された地域の、しかも農業で生計を立てていた方は、
どんな思いであったろうと胸が傷んだ。

タケノコや栗、しいたけは、放射能汚染が気になるところだが
こういう時はお付き合いを優先、感謝していただくことにしている。

叔父と身近に話すようになったのは退職されてから後で、まだ私も数回ほど。
亡き父の話を(それも良いことばかり…?)いつも色々話してくれた。
話が面白く、結構、熱血教師であったこと。
あこがれていた女生徒もいた?とか。
(父は師範学校卒業後、この付近の高校で歴史を教えていた)
私が「父親っ子」だったことを叔父は叔母から聞いていたのだろうか。
ここで父の教師時代の話を聞けるとは…
自分の話より、私のために話題をみつけて話してくれる心遣いを嬉しく思った。

叔母は私の養母の妹。
だから、叔父も叔母も私の親戚であっても血縁ではない。
祖母も、養女の私を分け隔てなく大事にしてくれた。
過去記事

祖母が100歳になりました^^  


祖母は、毎年、我が家に美味しい林檎を送ってくれていた。
晩年は、あまり顔を見にいくこともできなかったのだが
私からの手紙を楽しみにしていてくれたという。

祖母が亡くなった翌年も、また祖母から林檎が届いた。
差出人は祖母の名前。
でも、筆跡は叔母の字で…。

そんな叔父や叔母との縁を大切にしたいと思う。

家族や親戚のつながりは人間関係の基本だが、
人と人との繋がりは人格と人格の交わり
血縁以上に親しく、豊かな人間関係も築ける

叔父叔母の家は、遠方にあり、
二人とも持病を抱えながら年齢が高くなり…
私も健康体ではなくなったことなど考え合わせると、
実は「今回が最後」…という気持ちで次男と会いに行ったのだが…

楽しい時間が過ぎて、帰りぎわに
「今度はもっとゆっくり来なさい。
ここは鳴子温泉も近いし、自然の美しい所もたくさんある
色々案内するから…」

こんなことを言われると、「今回が最後」にはならない。
「遠いけれど、また行きたいね」と次男くん。
やっぱり、またいつか訪ねたいと思う私たちだった