幸せ探し・・・「虹の足」

吉野弘さんの詩を思い出しついでに、図書館に行って、詩集を借りてきました。

その中にあった「虹の足」・・・

バスの中からは虹が見えるのに、その虹の足下に住む人には、虹が見えない。

実際科学的にも、虹は光の角度のせいで、虹がかっかている場所に住む人たちに虹は見えないのだそうです。

幸せも、他人からは見えても、自分では幸せの中にいることがわからない。

つまり、他人には幸せに見えるのに、自分では幸せの中にいるのに気づかないまま、・・人は幸せに暮らしているのではないか・・・という幸福論です。



  虹の足   吉野 弘

雨が上がって
雲間から
乾麺みたいに真直ぐな
陽射しがたくさん地上に刺さり
行く手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
ーおーい、君の家が虹の中にあるぞオ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人に見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることがー。


「そんなこともあるのだろう
他人に見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることがー。」


この詩の最後の5行の言いたいことは、

「人は幸福の中にいて、幸福に気づかない・」と、いうことよりも、

逆に、「幸せを探してごらんなさい。」と言われているような気がしました。


(貴方は幸せの(虹)中に生きています。
 
       あなたのまわりにある幸せ(虹)に気づいてください。・・・)と。



平凡な暮らしの毎日の中にも、探せばいくつも幸せがあります。

毎日のささやかな楽しみや、喜びをみつけられることが幸せだと思っています。


夫が亡くなり、早々と一人身になってしまった身の上を不幸せ・・と感じた時期も一時はありましたが、

逆に、自分の身の周りにある良いことや幸せなことに注目して、拾い集めてみると、

自然に心が癒されて、少しずつ幸せが感じられるようになりました。不思議な体験でした。


「日々是好日」も、どんな毎日も好い日と思って、積極的に幸せ探しをしようという意味のタイトル。


(* 多くの人は「今日も一日よい日でありますように」と願い、無事を願う。しかし現実はその願いの通りにはいかず、雨の日、風の日があるように様々な問題が起き、悩ませられることばかりかもしれない。しかし、どんな雨風があろうとも、この一日は二度とない一日であり、かかけがえの無い一日である。この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに日々是れ好日となる。好日は願ってえられるものではなく、自らの生き方に日々に好日を見出しえなければならない。主体的に充実した、よき一日として生きていくところにこの語の真意がある。)禅の言葉より

この文章の、「毎日、日々の中に、好日を見いだしなさい・・」というところは、
「毎日の生活の中で<良きこと>、、<幸せなこと>を見つけて生きなさい・・」というふうに置き換えて読めます


この「虹の足」という詩からも、自分の身の回りにある幸せに気づいてほしい・・・というメッセージを感じました。幸せは、自分で気付くことなのですね・・・。

「幸せは自分の心が決める」こんな言葉も思い出します。