守田敏也さん講演録(9)戦禍から復興した街が放射能を浴びたということ

守田敏也さん講演録(9)戦禍から復興した街が放射能を浴びたということ

【苦しみの歴史の中にいるベラルーシ
翌日になって南のゴメリに行くことになりました。ゴメリはチェルノブイリ原発ウクライナとの国境線のすぐ北の街で、原発事故で最も激しく汚染されたところです。ミンスクからバスで4時間の旅でした。
車内でドイツからベラルーシに足しげく通ってきた、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部の、ドローテ・シーデンドップさんが、ベラルーシの国についての解説をしてくださったのですが、その中にショッキングなお話がありました。
実はベラルーシは、ナチスドイツがソ連に攻め込んでいったときの一番の主戦場になったところなのだそうです。ナチスドイツは1941年の6月に独ソ不可侵条約を破ってソ連に攻め込みました。「バルバロッサ作戦」というのですけれども、北方軍と中央軍と南方軍とに分かれて進撃したのです。北方軍はレニングラードを目指し、ポーランドから入って今のバルト三国あたりを通過して当時のレニングラードを目指しました。
一番、勢力が大きかったのは中央軍で、ベラルーシを通過し、東側にある首都のモスクワを攻略しようとした。さらに南方軍が行ったのが当時のソ連の穀倉地帯であったウクライナの占領だったのです。数年にわたる占領が行われました。
それに対して一番激しい抵抗をしたのがキエフの街だったそうです。今のウクライナの首都ですね。キエフの攻防戦やミンスクの攻防戦は激しかった。ヒトラーは途中でキエフを落とすために中央軍の力をキエフに持っていきました。それで占領が実現したのですが、ここで部隊がキエフに釘付けになっている間に侵攻軍全体が冬将軍にも襲われて、結局はモスクワまで行けなかったのです。
だからモスクワの盾になる形で、ベラルーシウクライナナチスにめちゃめちゃにされたのです。僕はその事情を知らずにベラルーシを訪問したので驚きました。知らなかったことを申し訳なく思いました。
この地域ではロシア赤軍の兵士もすごくたくさん死んでいますが、ドイツ軍は占領した地域で徹底して略奪を行ったし、さらに撤退するときには焦土作戦といって、地域一帯を全部燃やしてしまった。ゴメリもほとんど建物が残らなかったそうです。
そのゴメリが後年、チェルノブイリ原発事故で膨大な放射能を浴びたわけですが、事故当時は舗装された道路がなく、巻き上げられる土や埃とともに放射能が移動していったそうです。そこで旧ソ連政府が道路の舗化工事を行った。この危険な仕事に、リクビダートルだった人々や地域の人々がたくさん動員されたそうですが、工事で道路を掘り返すといくらでもナチスのヘルメットだとか人骨とかが出てきたそうです。そのような痛ましい歴史を持っているのがゴメリでありミンスクなのです。
本当にショックを受けました。それだけひどいナチスの侵略でモスクワの盾になり、ボロボロになってしまった。そこから戦後40年、1986年までやっとのことでもう一度復興して、自然に囲まれた豊かな町々を取り戻したベラルーシウクライナが、チェルノブイリ原発事故で最も汚染されてしまったのです。両国の汚染比率は、だいたい7対3くらいで、ベラルーシの方が被害がひどい。しかしウクライナも相当ひどくやられている。
そうやってチェルノブイリ原発事故でめちゃめちゃに傷ついて、その後に社会主義ソ連邦の崩壊で、ものすごい混沌の中に落とされてしまった。今も公共財産のもぎ取り合戦の最中です。もう連続的に、次から次へと、ベラルーシウクライナは、苦しみ続けてきたのだということが分かりました。
今、ウクライナではロシアを離れて、EUの側につこうとする人々が、腐敗していた前政権を倒し、新しい政権を打ち立てました。それに対してロシアがそれを許さないという形でクリミアを併合しようとしている状態にあります。もちろん僕はロシア軍の行ったことは絶対に間違いで、クリミアを自由にすべきだとは思いますが、ウクライナの住民の中に、ロシアを支持する人々がいるのも事実です。またウクライナの現政権を支持する人々の中には、極端な右翼排外主義の人々もいるようです。
それらを考えると悪いのはロシアだけだとは言えません。今、世界の中で起こっていることは、どこの国が悪いとかいうことよりも、一部の大金持ちたちがあらゆる公共財を privatization の名のもとにどんどん私有化して、社会を歪めていることだと思います。それが社会矛盾を強め、人々の対立を作り出してもいる。
ご存知のようにベラルーシウクライナは、原発事故以降、人口が減っている状態にあります。間違いなく放射能の被害があるのです。しかしそれとだけ向き合っていられない状況に二つの国が置かれているのだということがとてもよく見えました
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