守田敏也さん講演録(10)ドイツが行うチェルノブイリ支援の背景

守田敏也さん講演録 〜 ドイツが行うチェルノブイリ支援の背景

お読みくださり ありがとうございます。
非常に濃い内容が続いています。
ベラルーシウクライナがたどった、
戦禍の歴史とチェルノブイリ原発事故による悲劇、
そして現在についてお伝えしてきました。
こちらまで打ちのめされそうになりながらも、
守田さんの見て来られたこと、
書かれている文章からは確かに希望が伝わるのです。
続きをどうぞ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
【ドイツの人々とウクライナベラルーシを訪ねた意味
ー西ドイツと東ドイツ
ではなぜそのような状態の国を訪ねたのか。そのことを僕はドイツの方たちといろいろと話しました。ベラルーシにドイツの方たちと一緒にいったことが非常に感慨深かった。特に旧西ドイツ出身の人々はナチズムに対する心の底からの反省の気持ちを持っている。
ドイツと言ってももともとは一つではなかったのです。いや1945年までは一つでしたが、その後、東西に分断されてしまった。1989年に「ベルリンの壁」が崩壊して再統合しているわけです。つまり旧西ドイツの人たちと旧東ドイツの人たちがいるのですよ。
その間には明確に違いがあります。何が違うのかというと、東ドイツの人たちは、例えばドイツ放射線防護協会会長のセバスチャン・プフルークバイルさんが典型なのですけれども、旧東ドイツでは、科学者になるためにはロシア語が話せないといけなかったのです。博士論文はロシア語で書いていた。だから旧東ドイツのインテリは、ロシア語の読み書きができるのです。旧西ドイツの側はどうかというと、当然にも英語の読み書きができる。だいたい大学まで行っていれば、かなりの英語力があります。
旧西ドイツの側はナチズムの侵略に対する反省を社会全体で随分と深めてきました。なので、ナチスが占領し、蹂躙した場に行くことに対して、旧西ドイツ出身の医師たちは、すごく痛みを持っていた。何とも言えない表情でその場に臨んでいました。
その中に、アンゲリカ・クラウセンさんという非常に仲良くなった女性がいます。彼女も旧西ドイツの出身なのですが、ゴメリで受け入れた病院側が、ずいぶん豪勢な晩餐会を開いてくれて、このとき多くの方がスピーチしたのですけれど、彼女は「私はかつてポーランドアウシュビッツに行ったときに、にわかに英語がしゃべれなくなりました。今回もここに来て、またショックで英語がしゃべれなくなるかと心配でしたけれども、今お話ができてます」と言ったのでした。
アンゲリカさんのこのお話からも、ドイツの人々がかつて犯した罪に対して、それをいかに償うのかという観点を本当に真剣に深めてきており、そこからチェルノブイリの被災者への支援が行われてきていることが垣間見えました。
実際、旧西ドイツの頃から、ドイツやオーストリアは、凄くたくさんのお金を出しているのだそうです。ミンスクでの小児白血病に対する病院の豊かなシステムが成立しているのも、そういう海外からの支援がたくさん入っていることによっています。
では旧東ドイツはどうだったのかというと、ナチズムに対しては被害者の人たち、共産主義者などが政府を作ったので、ナチズムに対して旧西ドイツほどの深い反省はなされたなかったようで、この点はむしろ東西統一後に深められてきているようです。そのためベルリンの旧東ドイツ地区に、大きなホロコースト記念館があるのですが、わりと新しく建設されています。おさらく旧東ドイツは、互いに被害者であったという意識の方が強かったのだと思うのですね。ベラルーシなど、ナチスに蹂躙された人たちに対して、一緒に戦ったという感覚があって、もともと強いシンパシーがあった。
また旧東ドイツのインテリ層が、ロシア語が話せるということがすごく大きな位置を持っています。言葉が通じるから当然、意志の疎通もしやすい。そのため東西統一後のドイツは、旧東ドイツの人々を通じて、ロシア、ベラルーシウクライナの人々と結びつくことができたのだと思います。言葉が通じることは本当に大きいことです。
ちなみにドイツ人とロシア人の交流では、ドイツ語とロシア語が主になるのですよ。そこに旧西ドイツ系の人々や他の地域の人々が入ってくると、共通語は英語になる。こういうときの英語は通じやすいです。誰もがネイティブではないから。互いにゆっくり話すし、相手が理解しているかどうかを確かめながら話し合う。発音がお国柄によって違ったりするのですが、それでも十分に通じます。
先ほどの晩餐会で使われた言語は英語、ドイツ語、ロシア語、日本語でした。語学が達者な医学者や科学者が多い場で、英語が一番通じやすい。でもドイツ語とロシア語もかなりの人が理解できる様子でした。もちろん一番通じにくいのが日本語です。
ともあれドイツが長く分裂していて東西に分かれていて、それぞれ東側、西側に窓が開けていたこと、そのドイツが一つに融合する中で、大きくチェルノブイリの人々と、ヨーロッパを結びつける流れができたのだと思いました。その意味でも、ドイツはチェルノブイリ被災者支援の大きな拠点なのだと思えます。
【国境を越えた交流への情熱】
今回、ドイツで行われたドイツとベラルーシと日本の医師を集めた「国際医師協議会」もそうした流れの中で立ち上げられたのだと思います。
僕はずっとなぜこのような企画が立ち上がったのか考えていたのですけれども、もともとドイツの医師たちがベラルーシの医師たちをどんどん他の国々に連れ出し、さまざまな医師や科学者、人士との交流を促すことを行ってきた蓄積があって、それを促進する位置があったのだと思います。
要するに、ベラルーシの医師たちも当然、本当は事実を知っているのです。ベラルーシで起こっている多くの病が、チェルノブイリ原発事故の被害だということをです。しかしベラルーシの中では、そうしたことはなかなか言えないのですよ。言ったら国立機関の中では働いていくことは難しいのだと思うのですね。
だけれど、そのような医師たちがドイツに「国際医師協議会」ということでやってきて、いろいろな見解を語っている人士と交流できる。このことがとても大きいのだと思います。なぜならベラルーシの医師たちは、現実にはもっともたくさんの被害者に接しているからです。また病の原因が何であれ、それを治すために尽力している。その医師たちを支えることは被災者を支えることであり、被害の根拠を探ることとは別に、やり続けなければならないこととしてあります。
そのために、シーデントップさんなど、もう20年以上も地道にベラルーシの医師たちと連帯をして、支援を続けてきた。人道援助としてしっかりやってきているので、ベラルーシ政府も拒否できないし、しないのです。そのつながりを通じて、ベラルーシの国立機関の医師たちをドイツに連れてくる。「低線量被曝は非常に危険だ」という見解が、わあわあと飛び交っている場にです。もちろん発表会も一緒に行う。
ベラルーシの医師たちは、ここでも内部被曝のことはほとんど言いません。危ないのは、あるいは影響があるのは外部被曝だと言います。発表内容は明らかに他の医師たちと意見が食い違ってはいるのだけれども、そういう形で、一緒になって放射線障害の問題を話し合って交流する中に、国境を超えた、放射線障害との闘いの共同戦線みたいなものが作られてきているのだと思うのです。
今回の企画はドイツの人たちが中心になって作り上げてくれたのですけれども、僕はそうしたことをとてもありがたいと思いましたね。しかもそこに日本の僕らを呼んでくれたのです。世界から見ると、日本だってベラルーシとそれほど変わりがあるわけではない。放射能の危険性は低いなどと言っている「科学者」の方が圧倒的に多い。そういう国である私たち日本から、志のあるものを招いて、いろいろな人士との交流の場を設けてくれたのでしょう。