日々の雑感325:表現の自由に名を借りた暴力その2

かつて物議を醸した、ムハンマドマホメット)をテロリストに例えたデンマークの諷刺画事件もそうだったが、欧州ではイスラーモフォビアが「表現の自由」「言論の自由」の名のもとに擁護され野放しにされる傾向が日増しに強まっているばかりか、イスラーモフォビアを公然と掲げる右翼政党が議会で大きく躍進する例すら増えている。

 キリスト教国が「神の福音」の名のもとにアメリカ大陸、アフリカ、アジアへの侵略・植民地化を進めた歴史があるからといって、例えばイラク戦争アフガニスタン戦争の諷刺としてイエス・キリストを殺人者に例える諷刺画が作られたとしたら(実際、イエスが殺人者なのではない)、あるいはイエスが全裸で尻を突きだしている絵が描かれたとしたら、はたまた「聖書は糞」などと呼ばれたとしたら、キリスト教徒はそれを「表現の自由」だといって擁護できるのだろうか?

 自らの問題に置き換えて想像することが必要ではないのだろうか(われら日本人も然り)。
 「言論へのテロの問題」として単純化せず、欧州にはびこる(そして日本にも影響を与えつつある)「イスラーモフォビアの問題」として、この事件を真摯にとらえるべきだ。
(*)断っておくが、一般的なムスリムはかかるテロを正当化しない。実際、エジプトのイスラーム教学の権威アズハルのように、今回のテロを批判する声明も出ているし、大半のイスラーム法学者は同様の立場をとるだろう。
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47ニュース: イスラム権威が銃撃事件非難 「いかなる暴力も拒絶」
 イスラーム協力機構(OIC)事務局も、今回のテロ事件を非難し、遺族に弔意を示す声明を発した。「暴力と急進主義はイスラームの最大の敵である」と、この声明は述べている。
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OICウェブサイト: OIC Strongly Condemns the Terrorist Attack on Charlie Hebdo, France
 「イスラーム教を攻撃したらムスリムはテロに走る」という悪しき思い込みが広がることが心配だし、そういう危険をもたらしたことが、今回の襲撃者の最も非難されるべき点だと思う。
 ただし、そのことはムスリムが侮辱的な諷刺画を容認しているということを意味するものではない。ムスリムの忍耐に甘えてイスラーモフォビアを野放しにしてはいけない。
在日コリアンが実際にテロに走ることがないからといって、在特のようなヘイトクライムを野放しにする甘えが許されないのと同じだ。
(以上、
https://www.facebook.com/takabayashi.toshiyuki/posts/10205718303861457?pnref=story
 
 死者に鞭打つのも何だとは思うが、あんなイスラーモフォビアに満ちた諷刺画を繰り返し掲載してきた人物を「タブーに果敢に挑もうとする姿勢」だと評価するのなら、在特会前会長の桜井誠だって「在日特権」なる「タブーに果敢に挑んだ」と賞賛されてしまうことになる。敵意を煽る悪質な煽動者だというのが公平な見方だろう。

 フランスでは10万人もの人々が「表現の自由を」と抗議デモをしたという。非道なテロの帰結とはいえ、イスラームに対するヘイトスピーチの自由を10万人もの人々が公然と要求したと思うと、目眩がしそうだ。

 板挟みの立場に置かれたフランス在住ムスリムらの恐怖はいかばかりだろうか?
 「拉致」「核実験」「ミサイル発射」を行う「北朝鮮」は許せないとの世論に乗っかって、在日朝鮮人朝鮮学校に向けられた激しいバッシングと、まさしく相似形というべき現象だ。
(以上、https://www.facebook.com/takabayashi.toshiyuki/posts/10205730441404888
 事件発生以来、これに関する報道を国内の新聞、テレビニュース、そしてBBCなど海外のメディアで注視してきたが、高林氏のように「シャルリー・エブド」の「表現」に疑問を投げかけたのは、私が見た限り、1月8日の「報道ステーション」などほんの一部のメディアだけだった。
 私は長い中東取材の中で、たくさんのパレスチナ人やイラク人の敬虔なイスラム教徒を見てきた。彼らにとって、イスラム教とは生活、人生そのものだ。その聖典である「コーランクルアーン)」や預言者モハマド(ムハンマド)が彼らにとって「精神的拠り所であり身命にも等しい」(高林氏)存在なのである。
さらにアラブ人は、名誉・尊厳を最も大切にする文化をもった人たちで、そのためなら命さえ投げ出す。そんな彼らが生きる指針とするイスラム教を冒涜することは、彼らの人間としての尊厳と存在そのものを踏みにじることである。それを許すことが「表現の自由」なのか。

 「朝日新聞」の冨永格・特別編集員は1月9日朝刊に「フランスのカリカチュール(風刺)は、17世紀の喜劇作家モリエール以来の伝統といえる。19世紀以降は活字メディアを中心に、常に文化の一角を占めてきた」と書き、パリ大学の教授に「風刺はフランス大衆に受け入れられてきた。あらゆる権力や不寛容と闘い、表現の自由の限界に挑み続けてきたジャーナリズムなのだ」と語らせている。
 
では、イスラム教徒の尊厳・人間の尊厳を踏みにじるような行為は、フランスの「伝統」であり「ジャーナリズム」として許されるのか。欧米の文化や価値観に染まりきり、非欧米世界の文化や視点、価値観にこれほど無神経な「エリート記者」の記事より、
東京新聞」(1月9日版)で紹介している日本人イスラム教徒の下山茂氏の「風刺というのは弱い立場の人が権力者をからかうもの。そうでない人を傷つけたり、おとしめたりするのは、パロディと言えないのでは」という言葉の方がよほど核心をついている。
 
今回の事件もまた、世界に、イスラム教とそのイスラム教徒たちへの差別意識や恐怖心、憎悪の感情を増幅させるだろうし、その「イスラモフォビア」を世界に広げるために利用しようとする個人や組織を活気づかせるだろう。実際、事件直後からフランス内外でイスラム教徒やモスクへの襲撃が頻発している。

 また政治指導者たちの中には、己の政策推進のために、欧米社会で起こったこの事件(アフリカやパキスタンでの事件より、欧米で起こったこの事件は比較にならないほどその衝撃度が大きい)を利用する者も出てくることは間違いない。
 イスラエルのネタニヤフ首相はその典型だ。この事件直後にネタニヤフ氏は「急進的なイスラム教徒による攻撃には国境などない。テロリストは私たちの自由と文明を破壊したがっている」と語った。氏は暗に、今回の事件を起こした「イスラム過激派」とガザ地区ハマスをダブらせて、改めて「(このイスラム過激派のように)ハマスが私たちの自由と文明を破壊したがっている」と世界に訴えようとしていることは明らかだ。国際社会でハマスを「危険なイスラム過激派」と同一視させる手法はイスラエルの政治指導者たちの常套手段だ。
 実際、ネタニヤフ氏は昨年9月、国連総会でこう発言している。
 「ISIS(イスラム国)とハマスは同じ狂信者たちだ。ハマスはISIS(イスラム国)。ISIS(イスラム国)はハマス。(ハマスを擁護する)国連人権理事会はテロリスト理事会となった」
 氏は、ハマスがISISと違い、住民の抵抗運動の中から生まれ、住民の強い支持があり、民主的な選挙で選ばれた組織であることは無視する。また2009年8月にアルカイダ系の組織「神の兵士」がラファで「イスラム国」を宣言したとき、ハマスがこれを武装制圧し、自分たちとアルカイダ系の組織とは全く異質であることを内外に示したことも見ようとはしない。皮肉なことに、もしハマスの存在がなければ、ガザ地区はシリアやイラクのようにアルカイダ系の過激なイスラム組織が群雄割拠しかねず、イスラエルにとってさらに危険な状態になり、ハマスがそういう状況を食い止める“重し”になっている。その現実も見ないふりをするのだ。
 このように突出した一部の「イスラム過激派」を他のイスラム組織や一般のイスラム教徒全体と同一視させるやり方で、「イスラモフォビア」が世界に喧伝され増幅されていく。それは今回のような事件を目の当たりにした私たち日本人の中にも無意識に浸透していきつつある。大半のメディア報道の中にそれは象徴的に表れている。
しかも表現の自由を守る」という大義名分があれば、それは正当化され、私たちは後ろめたさも罪の意識も感じずにすむ。しかし十数億人のイスラム教徒にとっては、それは紛れもなく、自分たちの尊厳と存在を脅かす“暴力”なのである。