「言葉の謝罪」に焦点が当たるのはなぜか?

2015-08-14

「言葉の謝罪」に焦点が当たるのはなぜか?

鳩山元首相が韓国の刑務所跡でひざまずいたそうです」というエントリーに

コメントを頂きまして、そのなかに、こういうくだりがありました
「先日駐日ドイツ大使の講演会に参加した際に、戦後の謝罪について言葉だけでなく
 態度で謝罪の意を示すのは効果的であるということをおっしゃっておられました。」

思えば、謝罪というのは何も言葉だけでしかできないことではなかったんでした

(ぼく、それをすっかり忘れてましたわ…)


「言葉の謝罪」って、実はあんまり覚えててもらえないことがあって、ときには

謝罪の意を示す行為をすることが、「言葉の謝罪」よりも強く人の心に響くことがあって

例えば、上記のエントリーで写真を紹介した、(アデナウアーではなくて)ブラント西ドイツ首相が

ポーランドワルシャワにあったユダヤ人ゲットーの記念碑の前でひざまづいたこと…なんかが

その典型的な例だと思います


あの行為は「言葉の謝罪」よりも被害者や被害国の人々の心に強く深く響いたことでしょうし、

それは当事者、当事国だけではなく、全世界的にドイツの謝罪(とそれを可能にした真摯な反省)を

印象づけたものでした

(だって、ぼくだってあの姿は知ってましたしね…と言いつつ、首相の名前は勘違いしてたけど…)


そういえば、今年の5月に、現ドイツ首相のメルケルさんが

ドイツの強制収容所跡地を訪れて「献花した」というニュースがありまして…

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mzponta/20150813/20150813225051.jpg

メルケルさんは、やはり頭(こうべ)を垂れてはりました


そして、その収容所跡地であった記念式典において、メルケル首相は…
ナチスがこの収容所で犠牲者に与えた底知れない恐怖を、我々は犠牲者のため、我々のため、
 そして将来の世代のために、決して忘れない」

「我々は、皆、ナチスのすべての犠牲者に対する責任を負っている。
 これを繰り返し自覚することは、国民に課せられた義務だ」

と語ったんですが、「責任」や「義務」という言葉はあっても

このなかに「直接的な謝罪の言葉」はありません

けど…

メルケルさんの言葉を聞いてて、「なんで謝罪の言葉が入ってへんねん!」と感じた人って

あんまりいてないんじゃないでしょうか

(ちなみに、ぼくはまったくそない感じませんでした)


それはなんでか…と考えると、メルケルさんが頭を垂れてた…こともあるし

メルケルさんが、「ナチスの罪」を深く自覚して、そこから逃げないという決意をちゃんと持ってはる…

ってことは、過去の行為を真摯に反省してる…と感じたからやと思うんです


つまり、直接的な「謝罪の言葉」がなくとも、被害側に伝わる「謝罪の仕方」はいくらでもあって、

実は、「形式的な謝罪の言葉」よりも「真摯な反省の態度」を示す方が、

より伝わる「謝罪」になりうるわけです


この点、日本(政府)がなぜ、「言葉による謝罪」を求められるのか…と言えば

それは、どない考えても日本政府に「過去への真摯な反省の態度が見て取れないから」でありまして

そのために、相手方は「言葉による謝罪」という(目に見える)確認を求めているのだと思うんです


とすると、謝罪をくり返し求められるのは、「相手方に起因すること」ではなくて

「こちら側の振る舞いに起因すること」なので

くり返し謝罪を求められる…という被害者感覚を抱くのは、まったく筋違いです

だから…(以下、ひとさまのtweetより)
「戦後70年談話」 稲田朋美 : 日本は過去の戦争への痛切な反省のもと、戦後は一貫して平和国家として国際社会の平和と発展に貢献して来た 戦争の解決は平和条約の締結が全てであり、未来永劫謝り続けることには違和感がある

何度も「謝罪の言葉」という確認を求められるのは、こちらが相手方に伝わる「反省」をしてないから…でありまして

「過去への真摯な反省」が相手方に伝わらない限り、ドイツと違って日本政府は

「謝罪の言葉」を未来永劫、くり返し求められることでしょう

(だって、日本が未来永劫、真摯な反省をしなかったとしたら、
 相手方は未来永劫、言葉の謝罪という確認を求め続けるでしょうからね)


また、戦争からまだ70年しか経ってなくて、同時代に生きている人で戦争を体験した人がいる…という、

まだ「歴史」にもなってないことに関して、早くも「未来永劫」を語るのは

いくらなんでも、話が…というか、時間が飛びすぎやと思いますよ、稲田はん…


で、これはなにも戦争のことだけではなくて…
「謝罪は十分だ」と判定する人たちは自分が被害者の立場にあった出来事について、
 加害者が「もう謝ったからいいだろう」と言い出したら同意できますか?

…という、素朴な話であると思うので、加害側が「いつまで謝ったら…」なんてことを被害側に向けるのは

それこそ「反省なんか全然しとらんで、コイツ…」ということの証拠でしかないので

そんなこと言ってる間は、「謝り続けないとあかん」ことになるでしょう

(つまり、謝り続けないといけないかどうかは、実は被害側が決める…と言うよりは
 こちら側(=加害側)の態度で決まるんじゃないの…ということですわ)




強制収容所跡地で開催された記念式典で、印象的な写真がもう一つあるので紹介しておきます

ダッハウ強制収容所の生存者と手を組み合うメルケル首相)
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mzponta/20150813/20150813225052.jpg

献花し、頭を垂れていたときの表情とはうって変わって、なんと穏やかなメルケルさんの顔…

そして、そんなメルケルさんを見つめる元収容者の顔には、

メルケルさんへの憎しみなど、感じることができません


ぼくは、いつか日本の元首相…ではなく、現首相が

ソウルにある独立運動家らを追悼するモニュメントの前で頭を垂れる…

あるいは、元慰安婦と手を組んで歩む…

あるいは、中国の南京で頭を垂れる…etc

なんてことを夢想するんですが、それが現実となった時には

「言葉による謝罪」を求められることはなくなるんではないか…なんてことを考えます