[戦後70年 地に刻む沖縄戦] 朝鮮人軍夫 飢えと差別と重労働と
[戦後70年 地に刻む沖縄戦] 朝鮮人軍夫 飢えと差別と重労働と
70年が経ちましたが決して忘れてはならない太平洋戦争における沖縄の悲劇です。
本ブログでは、出来るだけフォローして掲載の都度紹介するつもりです
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沖縄タイムス 2015年8月25日
隣の資料館には引きも切らず観光客が訪れるが、ここまで足を延ばす人は少ない。
公園内の円形広場に、故国の方向を示す矢印が埋め込まれている。なぜ、矢印を刻んだのだろうか。碑文を読むと、矢印に込められた痛切な思いが伝わる。
「この沖縄にも徴兵、徴用として動員された1萬余名があらゆる艱(かん)難(なん)を強いられたあげく、あるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」
「祖国に帰り得ざるこれら冤(えん)魂は、波高きこの地の虚空をさまよいながら雨になって降り風となって吹くであろう」
朝鮮人軍夫は、決して忘れてはならない存在でありながら、人々の記憶から忘れられつつある存在だ。
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1938年、国家総動員法が朝鮮に適用され、翌年の39年には国民徴用令も公布された。
すべてを区別なく平等に遇するという意味の「一視同仁」、朝鮮を差別せず内地(日本本土)と一体化するという意味の「内鮮一体」-これらのスローガンを通して朝鮮総督府は朝鮮の人々を鼓舞し、皇民化を推し進めた。
日本軍の軍人・軍属としてアジア・太平洋各地に送られた朝鮮人は、24万人とも34万人ともいわれる。
特設水上勤務第104中隊の陣中日誌は、中隊の任務として軍用物資の陸揚げ、運搬、道路工事などを挙げたあと、次のような業務を明記している。
「無学文盲なる朝鮮軍夫の教育訓練に従事す」
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「一視同仁」「内鮮一体」と言いながら、沖縄での扱いは理不尽極まるものだった。
阿嘉島では、米軍への投降をおそれ、壕の中に軍夫を監禁した。「私が医務室にいるとき、よく朝鮮人の死体が運ばれてきました」「みんな骨と皮だけになってしまって、明らかに餓死です」(『沖縄県史 沖縄戦記録2』)。
ひもじさのあまり、食糧を盗んで逃げようとした軍夫は山中で処刑された。
敗戦を解放と受け止め喜んだのは、日本兵とともに戦ったはずの「植民地朝鮮」からきた軍夫であった。