肥田先生から受け継ぎたい三つのこと(守田敏也さんの追悼文から)

みなさま。広島原爆に被災したその瞬間から、被爆者の命と身体を守るために奮闘し続けて来られた肥田舜太郎先生が、一昨日20日午前8時2分に他界されました。100歳を二ヶ月と二十日、超えられた日のことでした。
肥田先生に心からの感謝を捧げるとともに、ご遺族のみなさまに哀悼の意を捧げます。同時に微力な身ですが、肥田先生の教えを受け継ぎ、終世走り続けることを誓います。
 
肥田先生が亡くなられたことをいかに受け止めるのか。何を最も大事な教えとして継承すべきか。考えあぐねました。なかなかまとめることができませんでしたが、いま、三つのことがストンと胸の中に落ちて来ています。
<1、「長生き運動」命を大切に>
 一つに僕は、何よりも肥田先生が、100歳を超えてまで生き延びられたことに腹の底から熱い拍手を送りたいと思います!
先生は生前、被爆者に対して「長生き運動」を提起され「原爆を落とした奴らが驚くほど生き延びてやろう」と唱えられました。
そうです。原爆は最も大量かつ効果的に人々を殺すために開発された兵器です。肥田先生はそれを浴びせられながら、今日まで命を守り抜かれたのです。自らの言葉の完璧な貫徹です。ぜひみなさんと拍手喝采したいです!「肥田先生、素晴しい!よくやられました。最高でした。感動しました!」と。
人は必ず最期に死にます。これを書いている僕も、読んでくださっているみなさんもですが、僕は100歳まで生きられるでしょうか。みなさんはどうでしょうか。私たちの生死には、運、不運もありますが、肥田先生が実践されたように、自分の命の主人公になり、命をどこまで大切にすれば可能性は開けるはずです。僕はまずこの生き様を自分に問い続けたいです。肥田先生のような大往生を目指して日々の努力を重ねます。

<2、被曝者に寄り添い、内部被曝の研究と翻訳を続けられた日々>

次に思うのは、肥田先生の人生の輝きは原爆を投下したアメリカと、それに追従する日本政府に終世、抗い続け、人々の命を守る中でもたらされたということです
中でも特筆すべきことは、内部被曝の被害が隠されていることを暴露し続けたことです。私たちにとっての最大のプレゼントはここにこそあると僕は思います。
ご存知のように、放射線被曝には外部被曝内部被曝があります。今では社会の常識ですが、実は政府高官が内部被曝という言葉を初めて使ったのは、福島原発事故後の枝野元官房長官による談話の中でのことだったそうです。なぜかと言えば、核戦略を維持するためにアメリカが行った被曝被害隠しの要が内部被曝の無視だったからです。
これは今日まで貫かれています。被曝の具体性が全く違う外部被曝内部被曝を、シーベルトという抽象的な単位に換算し、内部被曝を極めて過小に扱っているのです。
これに対して肥田先生は、アメリカによる放射線防護学の誤りに気付かれました。ご自身が診られた被爆者の言葉に耳を傾けることからでした。肥田先生は教科書よりも患者の言葉を信用されたのでした。
放射線防護学と僕が診た被爆者の様子がまったく違っていたのです」と先生は後年、繰り返し語られましたが、そこには前提として、被爆者の側に寄り添って考えようとされた先生の立ち位置がありました
だから他の多くの医師が見過ごした事実に気づかれたのでした。いやそもそも原爆投下から何年もの間、原爆に関する情報の一切を機密にしようとしたGHQのもと、医師の多くは被爆者を診察することにさえ及び腰でしたが、肥田先生はアメリ憲兵隊に何度か逮捕すらされながら、被爆者のもとに通い続け、被害の実相をつかみ続けたのでした
しかしメカニズムも治療法も分からず、肥田先生は長い間、苦悶され続けました。そんな先生に転機がもたらされたのは、核実験で被曝させられたアメリカ兵を診てこられたアーネスト・スターングラス博士とのアメリカでの出会いでした。この時までおよそ30年が経過していました。
ここからの先生の奮闘もまた凄まじい。なんと臨床医としての激務の合間にアメリカの重要文献の翻訳を始めたのでした。スターングラス博士の『死に過ぎた赤ん坊』を訳したのが60歳代、続いてジョン・グールドの『死にいたる虚構』などを70歳代で、さらに90歳代でペトカウ効果について書かれた『人間と環境への低レベル放射能の影響』を訳されました。驚異的な医学的、学問的業績です。私たちにとっての珠玉の遺産です。この肥田先生が携われた内部被曝のメカニズムの解明を受け継いでさらに進化し、被曝被害を防遏する必要があります。

<3、「あなたがあなたの命の主人公になりなさい」>
三つ目に肥田先生から継承すべきことは、先生が述べ続けられた「あなたがあなたの命の主人公になりなさい」という観点です。
前述のように肥田先生は、被爆者に寄り添い、内部被曝の実相に近づきながらメカニズムや治療法の分からない辛い日々を送りましたが、しかし手をこまねいてはいませんでした。命を長えるために思いつくすべてのことに挑まれたのです。僕はその中で最大のことが、あの戦後の動乱期に日本共産党に入党され、革命を志されたことだと思います。医療の場では全日本民主医療機関連合会(民医連)の創設にも関わられました

すべての人の命のために、革命を志し始めた肥田先生は、被爆者だけでなく、戦後の貧しさの中から立ち上がった多くの人々に対しても、優しいまなざしを向けられました。そして人々がいかにすれば能動的に生きられるのかを考え続けられました。その中で先生は「人々に自分の命の主人公だという意識を受け付けることこそが人権意識の確立だ」という観点に至られました。
実はこのとき肥田先生は、従来の革命理論をすら超えつつあったと僕には思えます。というのは当時の日本の社会運動を牽引していたのはマルクス・レーニン主義で、正しい理論に基づく前衛が遅れた意識の下にある民衆を率いていくという観点に立っていたからです。
ところが肥田先生は、人々に「自分の命の主人公であれ」と教えたのでした。それがレーニン主義を超えるものであるかどうかなど先生の意識外のことだったと思いますが、肥田先生はその上にさらに、命を長らえるために毎日をいかに過ごすのか、いかにものを食べるのかが最重要課題であることを語られ続けられました。
僕が思うに実はこの点でも先生は、当時の社会変革思想に欠けていたものを超えつつありました。なぜならこれまでの社会変革運動、とくに左翼思想に牽引された運動は、命のことや食べ物や食べ方のことにほとんど注意を払って来ていないからです。他人ごとではありません。若い時に社会変革運動に飛び込んだ僕自身、40歳ぐらいまではデモとデモの間に、ハンバーガーショップに駆け込んで何でもいいからお腹に詰め込むような生活をしていました。自分の命を大事にするために、食べ物と食べ方を吟味する観点など、持っていなかったのです。
肥田先生はこうした社会風潮に対し「みなさんは病になったら医師の下にいって治してもらえば良いと思っている。それではダメです。みなさんの命の主人公はみなさんなのです」と唱え続けられました。それは革命家であり被爆医師である肥田舜太郎にして初めて語ることのできた言葉なのだと僕には思えます。
だからこの追悼文を僕はこう結びたいと思います。
革命家、肥田先生!
内部被曝の実相の解明のご努力と、すべての人が命の主人公へという教えをしっかりと受け取りました。これからも先生の後に続いて走り続けます。そしていつか先生にお会いする時に「先生、僕も頑張りましたよ」とご報告することをかたくお約束します。その日まで今は先生、さようなら!
合掌!