いよいよヤフーブログは8月いっぱい&舩後さんのこと

ヤフーブログも8月いっぱいになりました。
最後まで更新するかどうか、途中で移行するかどうかはまだ未定。
でも、ブログで交流してくださった皆さまとのご縁も大切にしたいですので
早く決めなければ…と思っています。

それまで、少し自分の記事も…今しばらくお付き合いくださいね。

安倍政治は相変わらずですが、先日の選挙結果で、れいわ新選組から2人当選、政党要件も満たすことができたのは唯一嬉しいことでした。
様々な立場の方々の主張から、弱者も生きやすい、支え合える世の中に変わっていけたら…と願っています。

舩後さんはあのお身体で、介護会社の副社長、講演もされるし、音楽活動も…
以前も議員に立候補されたことのある方で、障害者だから何もできないと言うのは間違いです。

ALSに罹り、家族に迷惑をかけずに早く死にたい…と思っていた彼が、生きる意欲を持ち始めたのは、ピアサポーターを頼まれたことがきっかけ
同じ病気で同じ悩みを抱えている人たちは、彼の誠実さ溢れるメールに支えられ、助けられたそうです。
人のために生きることが、彼の生きる力になったことを知りました。

良い紹介記事でしたので、お時間が許せば、以下、お読みください。
………………………………………………………………………………………

ALSという病気の当事者です。
57年岐阜県生まれ。9歳より千葉で育ち、現在も千葉県松戸市在住。
大学卒業後はプロミュージシャンを目指すものの、商社マンに。ダイヤモンドと高級時計を売る会社の企業戦士としてバブル時代を駆け抜け、バブル崩壊後も年に6億円台の売り上げを8年連続で叩き出すほどの営業成績を収めていました。
しかし、99年、41歳の夏、体の異変を感じるようになります。11歳の娘さんとの腕相撲に負け、歯磨きをしようとした手から歯ブラシが落ち、通勤のカバンが重くてたまらなくなり、マッサージに行っても鍼灸治療院に行っても良くならず、ペットボトルの蓋も開けられない。12月には舌がもつれ、ろれつが回らなくなりました。
身体の異変を感じ始めて10ヶ月、ようやく受けた検査の結果、00年春にALSと診断されます。
筋萎縮性側索硬化症 (きんいしゅくせいそくさくこうかしょう) 略してALS。
医師は舩後さんに言いました。
「体中の筋肉が、徐々に弱っていく神経の病気です。原因がわからず、有効な治療法もまだ確立していません。いわゆる『難病』です。四肢麻痺、つまり手足が麻痺し、やがて動けなくなります。舌も動かなくなり、しゃべることも、食べることもできなくなります。症状の進み方はさまざまですが、いずれ全身麻痺になることは、免れません。自力での呼吸もできなくなります。個人差はありますが、平均3年から4年で絶命します。死因は、呼吸筋の麻痺による呼吸不全です。しかし、呼吸器を装着して延命する道があります。選択は、患者さんの自由です」
ALSとは、難病に指定されている神経の病気です。日本では10万人に五人がこの病気を有し、そのうち二人が発病しているそうです。現在、日本には約9600人の患者がいるそうです。肉体は麻痺していきますが、精神活動に大きな影響はありません。頭ははっきりしているのに、身体が動かなくなっていくのが特徴です。18年に亡くなったスティーブン・ホーキング博士も21歳でALSと診断されました。
舩後さんの呼吸筋も衰え、01年、44歳の時に気管切開をします。この時、舩後さんは声を失いました。02年には噛むことも飲み込むこともできなくなり、口からの食事ができなくなりました。チューブで流動食を胃に流し込む「胃ろう」を医師に勧められましたが、舩後さんは頑なに拒み、断食僧のような日々を送りました。
舩後さんはこの頃のことを短歌にしています。
 
この病 舌が麻痺して飯食えず 放っておけば 餓死もありえて
チューブから栄養摂取サイボーグ 我は人なり手術を拒む
 
結局、餓死寸前のところで舩後さんは胃ろうの手術をしました。
そしてこの頃、船後さんは気管切開はしたものの、再び慢性的な酸欠状態に陥っていました。酸欠で死ぬのか、人工呼吸器をつけるかの判断が迫っていました。「呼吸器はつけない」。そう決めていたものの、船後さんの決心はこの頃、揺らぎ始めます。
きっかけは、医師に頼まれて始めたピアサポートでした。
ピアサポートとは、同じ症状や悩みを持つ仲間同士の助け合いのことです。船後さんは医師に、新しくALSの告知を受けた人に、アドバイスをしてほしいと頼まれたのです。
この頃、舩後さんは障害者のために開発されたコンピュータ「伝の心」(でんのしん)を使って文章が書けるようになっていました。指や額の皺などの動きを拾い上げるセンサーを使って文章を打ち、電子メールをやりとりしたり、それを自動音声にして読み上げることもできるようになっていたのです。
舩後さんは、告知を受けたばかりの患者に「伝の心」を使って話をし、同じ病気や麻痺に苦しむ人々と電子メールを交わすようになりました。
ピアサポートという生きがいを得た舩後さんは、呼吸器を装着して生きる道を選択します。02年8月のことでした。
この頃の葛藤を詠んだ短歌です。
 
寝たきりの我にいとしき妻と子を 守る術なし 逝くことが愛
死を望む 我に生きよと告ぐる声 廊下に響く 呼吸器の音
指一つ動かぬ我に生きる意味 ありと覚悟を決めし日の空
 
呼吸器をつける前の舩後さんは、「死ぬんだ。家族のために、生き恥をさらさないために、絶対に死ぬんだ」とばかり考えていたそうです。しかし、心の奥底には「生きたい」という気持ちが渦巻いていました。娘の花嫁姿が見たい。妻とともに年老いたい。親より早く死にたくない。押さえ込んでいたその思いは、ピアサポートという生きがいを得、社会の中での居場所を見つけた時、「生存の欲求」として、火山のように爆発したそうです。
入院中だけでも、船後さんは40名もの患者さんと直接会い、コンピュータを通じて話をしました。
自殺を考え、練炭の使い方をマスターしようとして中毒起こしてしまった患者には、「僕に甘えるのが、貴方のつとめ! 遠慮はいりません」とメールし、以後二年間、その男性は舩後さんに弱音を吐き続けたそうです。夜中の2時でも3時でも即座にメールの返事が返ってくることに、その男性は「わたしを救うために、命をかけてくれている」と思ったそうです。
舩後さんの活動はそれだけにとどまりません。
02年にはメルボルンで開催された「ALS/MND国際会議」に参加。翌03年にも、ミラノで開催された「ALS/MND国際会議」に参加。ALSを発症し、人工呼吸器をつけていても飛行機に乗り、海外で国際会議に参加できることを世界に知らしめました。また、コンピュータで講演をし、ミュージシャンとして音楽活動も楽しんでいます。のちほど、全身麻痺でも弾けるギター演奏の映像をご覧頂きます。
現在、舩後さんは自宅介護を受けながら、介護関連の会社である株式会社アースの取締役副社長をしています。この会社の介護施設「サボテン」では、末期ガンや難病患者、重度障害者を受け入れています。介護施設の利用者である舩後さんの視点を入れることでより良い介護ができると、女性社長から抜擢されての就任でした。
それだけではありません。14年には千葉県松戸市の市議選に立候補。落選となりましたが、舩後さんの挑戦は、注目を集めました。今は、歯で噛むことでパソコンを操り、年10回以上、看護学部・福祉学部のある大学を中心に講義をするほか、3年半にわたり福祉業界新聞でコラムを担当しています。
舩後さんは著書『しあわせの王様』で、このように述べています。
「わたしはピアサポーターとして『生き様を示す』ことにより、『人間、どんな姿になろうとも、人生はエンジョイできる!』と言うことを、伝えたいのです。ALS患者の方のみならず、多くの方々に」
 そしてこのようにも言っています。
「わたしは『ALSになった』という、たったひとつのアンラッキーと引き換えに、無限の数のラッキーを、手に入れてしまった。これをしあわせと言わずとして、なにをしあわせと言うのだろう?」
 
以上です。