川喜田半泥子、作品も生き方も粋な文化人

川喜田半泥子(はんでいし)を、ご存知ですか?
この方のことを記事にするお約束をしていたのに、今頃になってしまいました。
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この方を知ったのは、ブロ友さんから教えられ、川喜田半泥子展を観に行ったのがきっかけ。その前に*随筆 泥仏堂日録」*を読んでから行くと良いと言われ、読み始めると面白い!彼の魅力にぐいぐい引き込まれていきました。

*「東の魯山人、西の半泥子」と並び称された一流の風流人――川喜田半泥子。伊勢の豪商の家に生まれ、銀行頭取、地方議員などの要職をこなしつつ、書画、茶の湯、写真、俳句と、その多芸ぶりを発揮。とりわけ陶芸では破格の才を示し、自由奔放ななかにも雅趣に富む造形世界を創造、「昭和の光悦」と声価を高める。数寄の作陶家・半泥子の陶芸論を中心とした、遊び心溢れる、貴重な随筆集。


彼は三重県津市の江戸時代から続く木綿問屋の16代目。
2歳で父を失い、祖母によって育てられたのだが、
祖母政の「遺訓」がすごい!

われをほむるものハ、あくまと思うべし、我をそしる者ハ、善智しきとおもうべし。…… もし、何かよくでき候事あって、人に褒められ候ても、かならず、かならずてんぐにならぬよう心得が第一・・」

裕福な豪商の16代目に生まれ、幼くして両親を亡くしていることから、
甘やかされ、ちやほやされて育つことを心配しての祖母心。
「子供は褒めて育てるのが良い」と言われるが、この祖母の教えは真逆。

天才児を育てたカール・ビッツも、アドラー心理学でも、
子供は褒めすぎないで育てる方が良い」と。
褒め言葉がないと動かなくなり、うぬぼれて謙虚さがなくなり、人を見下すようになるからだとか…

半泥子は心優しい青年に成長し、津で最も早く自転車を購入、川喜多商店の店主として店の改革には、中学生風の制服を定め、自転車を置いて小僧たちに喜ばれた。



津の中学での絵画の教師は藤島武二。在学中、藤島に心酔して絵を描いた。
絵も上手いし、写真も上手い。

手紙にはほとんど絵をつけている。



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陶芸もあくまで趣味。
売り物にしようと思っていないので、自由に心の赴くままに作り上げる
純粋な美しさがあり、現代の「光悦」という声も・・
この「雪の曙」というお茶碗がとても美しい。
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「雪の曙」は美しい杉成の茶碗にたっぷりと白釉が流され、
片身がほのかな桃色に窯変した胴に、
くっきりと指跡が残されて、雪にしるされた足あとのよう。


お茶会ではすべて自分で茶杓も茶碗も作り、好きな茶碗を選んで飲んでもらい、帰りはその茶碗を土産に持って帰ってもらったとのこと。羨ましい!


 陶芸は50歳をすぎてから本格的に取り組み、素人でありながらその作品は多くの人を魅了。陶芸に対する情熱、豊かな教養やユーモアあふれる人柄、さらに次世代を担う陶芸家たちとの交流、近代茶陶への指導的助言など、数多くのエピソードを残した

伊勢商人の教養と社会活動
川喜多家に限らず、伊勢商人は質素倹約をモットーにしながら、伊勢の地に豊かな町人文化を築いた。恵まれた財力で、様々な文化活動や社会活動にいそしんだ。川喜田家の13代は、本居宣長の門人となり、14代は松浦武四郎を生涯支えた。
16代半泥子も、先祖の意志を継ぎ、世の中に役立つことをしたいと「財団法人石水会館」を設立。地域振興のために行動を起こした最後の伊勢商人の一人であった・・

昔はこのように、財力のある豪商は地域のために社会活動や施設を作り、儲けたお金を社会還元したものなのに、今は税金も払わず、社会にも還元せず、ただため込むだけ・・というのは限りなく寂しい風潮に思える。

半泥子の号は、「半ば泥みて、半ば泥まず」という意味。
何にでも没頭し、泥んこになりながらも、冷静に自分をみつめることができなければならない‥という意味で、大徹禅師から授かった。
「貴方は無茶苦茶、無茶星です」と人から言われたので、「無茶法師」を自称し、書画には無茶法師、焼き物には半泥子を使った。

人を楽しませることが好きで、楽しいエピソードもいろいろあり、
温かいユーモアや風刺にお人柄が表れる

終戦後、千歳山の家が進駐軍に取られると、この家に「ABCクラブ」と名前を付けて謹呈した。アメリカ軍には喜ばれたが、その意味は、なんと「アメリカン・バカヤロウ・クラブ」の意味であった。


急ごしらえの中途半端な記事になりましたが、
最後まで読んでいただきありがとうございます。