国粋主義的「安倍元号」(世に倦む~) 元号の本質(宮島氏)

国粋主義的「安倍元号」(世に倦む~) 元号の本質(宮島氏)

 
元号に関する硬派2人による論文を紹介します。
 一つは「世に倦む日々」氏のもので、安倍首相が胸を張って「国書由来の新元号」と宣伝したものの、万葉集巻5の序文は後漢の詩人張衡による「帰田賦」(「文選」所収)が実際上の原典になっているということです。
 そして「令」については政府は肯定的な面を強調したものの、「国の理想をあらわす」という目的に合わないからこれまで一度も元号に選ばれなかったのだと指摘しています。
 国が「メデタシ・メデタシ」に流れる中であれば、なおさらこうした忌憚のない指摘は必要なことです。
 
 もう一つは宮島みつや氏の論文:「 マスコミが報道しない元号イデオロギー的本質」です。
 世界的にも稀と言われた絶対主義的天皇制は明治政府が創設したもので、一世一元のシステムもその時に定められました。
 もともと元号」は君主が空間だけでなく時間まで支配するという思想に基づくとされていて、戦後象徴天皇制に変わった後には元号法はなくなり、徐々に自然消滅する制度であった筈でした。
 ところが日本会議の前身である「元号法制化実現国民会議」が1977年に全国各地にキャラバン隊を派遣して、各地の地方議会で元号法制化を求める決議を採択させる運動に熱心に取り組んだ結果、46都道府県、1632市町村(当時の3300市町村の過半数)で決議が行われ、それを受ける形で1979年に元号法が施行されました。
 
 彼らが自ら公言しているように「天皇と国民の紐帯をより強化する、天皇の権威をより高からしめるというところに元号法の一番の眼目」があります。平和を目指された今上天皇に対して、今日(安倍首相をはじめとして)『不敬』に振る舞っている彼らが、そんなことを口にすること自体「天皇の政治利用」に他なりません。
 

 いずれにしても「新元号」が発表になるまでの期間も含めてあれだけ騒ぎ立てきたマスコミが、元号イデオロギー的本質についは全く触れようとしないのは不思議なことです。
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反中・国粋主義剥き出しの「安倍元号」とマスコミの奉祝セレモニー
世に倦む日々 2019年4月2日

元号は「令和」。初めて日本の古典である万葉集を典拠としたことが強調され、脱中国・反中国のメッセージを前面に押し出すセレモニーの爆発となった。国民の反中感情を刺激し、日本のナショナリズムを高揚させて政権の支持を高める狙いだ。安倍晋三は夕刻のテレ朝の番組とNHK-NW9に生出演、漢籍出典の伝統から離脱した意義を高々と言い挙げ、その決定への国民の支持と賛同を呼びかけた。NHKのスタジオでは傍らに岩田明子を侍らせ、岩田明子にわざわざ、この選定は保守的な思想性が強いという世評があるがどうかと質問させ、それを否定せず、つまり、右翼日本会議が求める脱中国のイデオロギーに依拠したことを否認せず、堂々とそれを肯定する態度をテレビで表明した。その上で、保守的な思想と動機で選定した国書出典の新元号「令和」を、国民が広く受け入れ、支持と理解が深まることを願うと述べた。(中 略) 
 
テレビの前で目眩を覚えた。ここまで臆面もなく、衒いなく、安倍晋三が極右反中の思想的立場を公然と正当化したのは初めてのことだ。夜のNHKとテレ朝のテレビ報道では、新元号を礼賛し、「令和」の語感や意味をよいと評価する「街の声」で埋められた。大衆は、安倍晋三がプロデューした新元号のローンチイベント(発表会)に熱狂し、「令和」に強烈にコミット(かかわる)して一体化する「日本国民」になっている。少なくとも、テレビで撮られた大衆の絵はそう受け取られる姿になっていた。(中 略)すぐに世論調査が行われるだろう。そして、これだけマスコミが奉祝報道を仕込んで爆発させているのだから、「令和」は圧倒的に支持されたという数字を出すだろう。それは、「令和」を制作・監督・主演した安倍晋三の支持率に連動する。お祭りに付和雷同する大衆の心情が、自動的に安倍晋三の支持率上昇に繋がる。
 
しかし、安倍晋三とマスコミの説明は間違っていて、「令和」は万葉集のオリジナルではない。出典とされる万葉集の「初春令月、気淑風和、初春令月、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」には、実は元ネタとして援用された漢籍がある。それは奈良平安期に貴族に愛読された「文選」で、後漢の科学者で詩人の張衡による『帰田賦』という作品の中に原拠となる一節が存在した。「令和」が発表されてすぐの段階から、ネットではこの事実を指摘するツイートが上がっていた。そこには「仲春令月、時和氣淸、原隰鬱茂、百草滋榮」の詩句が並び、万葉集の「梅の花の歌の序文」と表現と用字が重なることが分かる。面妖なことに、菅義偉安倍晋三も、テレビ報道の解説も、一言も「文選」の『帰田賦』に触れず、初の国書出典だとそればかりを声高に強調した。NHKの中継で座っていた岩田明子の手元には原稿があり、万葉集出典についてもリアルタイムの解説で目を下にしてメモを読み上げていて、つまりは、「令和」が最初から決まっていて、事前に台本が準備されていた形跡が見え見えだったが、「文選」の『帰田賦』には触れなかった。
 
文化的事実としては、厳密には国書出典ではなく、国書と漢籍のダブルソースである。張衡の『帰田賦』の詩は、後の東晋陶淵明の『帰去来辞』のテーマを想起させるもので、宮仕えがしんどくなったので故郷の田園に帰ってしまおうという趣旨が詠まれているらしい。その張衡が仕えていた皇帝の名が安帝(劉祜)で、無能の上司への批判が含意されている漢詩が新元号の典拠となっていたという逸話に及び、その名が安帝という偶然(考案者の作為)にネットは爆笑状態になっていた。おそらく、だからこそ、笑い話にされるから、安倍晋三は張衡の『帰田賦』を禁句にしてNHKに報道管制を敷いたのだろう。客観的に文化的考証を加えれば、大伴旅人らの「梅の花の序文」には、(1)東晋王羲之の『蘭亭序』の創作的背景があり、(2)都から遠方に飛ばされたサラリーマン貴族が鬱を散ずる趣向に、同じく東晋陶淵明の『帰去来辞』における文人的虚勢の影があり、(3)遡って、その前史をなす文化類型として後漢の張衡の『帰田賦』があり、まさに中国文化の精髄をなす諸古典が血となり肉となっていることが分かる。因数分解すればそうなるが、果たして日本会議の感想は如何?
 
「令和」の二文字を菅義偉が発表したときの第一印象を正直に言うと、やはり「令」の字に違和感を覚えたことが大きい。(中 略)漢字の「令」を白川静的な方法で解剖すると、「頭上に頂く冠」と「ひざまずく人」の二つの象形から構成されていて、すなわち、人がひざまずいて神意を聞く事を意味し、そこから「命ずる・いいつける」を意味する「令」が成立したとある。上意下達の支配的・統制的な人間関係が意味に込められていて、このような漢字が「国の理想を表現するもの」とは到底言えない。「令」には「よい」「立派な」「優れた」の意味があり、その用例として「令息」「令室」「令嬢」などが並べられるが、むしろ慇懃無礼な敬語として使われ、二者間の距離の遠さや冷たい上下関係がイメージされる。命令の「令」を「和」と熟せしめるのも、構造体として妙に無理と矛盾があり、政府が下々に和たることを強制している表象性を拭えない。
 
これまで一度も「令」が元号に選ばれなかったのは、「国の理想をあらわす」という目的に合わなかったからに違いない。文久から元治に改元される際に「令徳」が候補として上がったという歴史も、よく考えると不可解で裏に何か意図があったのではないかと疑ってしまう。「徳川に命令する」という意味に取れる、(中 略)いずれにせよ、マスコミがどのように美化礼賛しても、「令」の字には不具合感がつきまとう。今後、マスコミは全力を傾注して安倍元号を応援し、「令和」を派手に祝賀して狂騒するキャンペーンを推進するに違いないが、われわれが明確に認識しなけれはいけないのは、「令和」は安倍晋三イデオロギー的な動機で恣意的に決めた安倍元号だという問題だ。反安倍の国民はこの元号を素直に喜べない。奉祝プロモーションに同調できない。
 
反安倍の立場のわれわれは、「令和」を納得して支持せよという安倍晋三の要求を拒否する。元号は権力者が恣意的に弄ぶものではなく、反中国だの何だののイデオロギーで選定するものでもない。われわれは、今、考えるべきだ。(中 略)安倍政治が破綻したとき、そのとき、安倍元号である「令和」への国民の視線はどうなるのか。皇太子(新天皇)の立場はどうなるのか。そのときは、おそらく、一世一元を崩して在位中の改元に踏み切るか、元号を廃止するしかないことになる。
 
元号の本質」(宮島氏)は長いので次の記事に続きます