元号強制は日本会議前身団体の圧力の結果だった

「新元号」でマスコミが報道しない元号イデオロギー的本質! 
元号強制は日本会議前身団体の圧力の結果だった
 2019年4月1日
 
(前 略) 
 現実的に考えて、元号は非常に不合理だ。日本の官公庁や公的機関の書類は、基本的には元号表記であり、公的には元号使用が強制されている。しかし、元号は国際社会にはまったく通用しないうえ、日本国内でも西暦が完全に定着し、国民生活では西暦が中心になっている。そのため、ことあるごとに元号表記を西暦に、あるいは西暦を元号に換算する必要が出てくる。
 しかも、改元にあたっては当然、政府や民間のデータベースやシステムを「平成」から新元号に刷新せねばならず、その対応には膨大な手間と費用を要する。さらに、問題なのは、元号が持つ意味だ。元号とは暦の一種で、歴史学では、支配者や指導者が空間(領土や民衆)のみならず時間をも手中におさめようとしてつくられたものと考えられている。代表的なのが中国であり、周知の通り、日本の元号も大陸から伝播したとされる。語源が『漢書』など中国の史書からとられていることは有名だ。
 右派は「元号は日本の伝統」などとしきりに口にするがようするに中国由来なのである。しかも、現在の一世一元、民間への元号強制は、明治から終戦までの天皇制国体イデオロギー体制の遺物でしかない。
. (中 略)
 では、こうした戦前の遺物がなぜ、今も公的な使用を強制されているのか。それこそ、まさに戦前体制を復活させようとする右派の圧力の結果に他ならない。
 
戦前の天皇制や国体思想の復活を目論んだ元号法制化運動
 

 戦後の国際化の流れのなかで、「元号を使うのはもうやめて西暦に統一しようではないか」という廃止論も盛り上がった。そして、昭和天皇の高齢化に伴い、「昭和」の元号が終わりを迎える日が刻一刻と近づいていった。
 こうした流れに強い危機感を抱き、元号の法制化に邁進したのが、いまの日本会議に繋がる宗教右派・極右運動家たちだった。いま現在、元号は1979年施行の元号法によって法的な地位を得ているが、これは、彼ら極右運動体の“成果”であり、日本会議前史における大きな“成功体験”として刻まれているとされる。
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 改めて説明しておくと、1997年結成の日本会議は、生長の家神社本庁などの宗教右派が実質的に集結した「日本を守る会」(1974年結成)と「日本を守る国民会議」(1981年結成)が合わさって生まれたものである。後者はもともと、この元号法制化運動のための元号法制化実現国民会議」が前身だ。そして、これらの団体の実働部隊が、現在でも日本会議の中心にいる右翼団体日本青年協議会日青協だった。
 元号法制化運動が大きく動いた1977年、日青協が中心となって全国各地にキャラバン隊を派遣する。彼らは同年秋に各地の地方議会で元号法制化を求める決議を採択させる運動に熱心に取り組んだ。(中 略)元号法制化地方議会決議運動は翌78年7月までに46都道府県、1632市町村(当時の3300市町村の過半数)で決議がなされた。(中 略)
 
西暦使用論が浮上するたびに、右派勢力が立ちはだかってきた
 しかも彼らは、明らかに元号法の制定の先に、戦前の天皇制や国体思想の復活をみていた。(中 略)そこでは「元号法制化の意味するもの」と題して、あけすけにこう語られている。
元号法制化運動の一番根源的な問題は、天皇と国民の紐帯をより強化する、天皇の権威をより高からしめるというところに一番の眼目がある。(中 略)そういう戦後の象徴天皇制の下で無視もしくは軽視されて来た問題を復活せしめて行くことによって、『国体恢復』への『大きな流れ』をつくる運動なんだということが理解されなければならないと思うんです」
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 その後も同様だった。国際化の流れのなかで「行政文書などでは西暦を使用すべき」という論が何度か浮上してきたのだが、そのたびに保守勢力が強く反発し、現在まで温存されてきた。
  (中 略)
 いずれにしても、わたしたちが、なんとなく受け入れてしまっている元号は、戦前日本の天皇制と国体思想、すなわち民衆を戦争に駆り立てた狂気の思想の復活を目指す勢力の圧力によって維持されてきたのだ。
 ところが、マスコミは今回の改元にあたってもそのイデオロギー的部分にはまるでふれず、冒頭で指摘したような元号予想やアンケートでお祭り騒ぎを繰り広げている。それどころか、元号を推し進めてきた右派勢力の親玉である安倍首相の元号利用を後押しする始末だ
 この状況をみるかぎり、少なくともこの国は着々と戦前に回帰しつつあるということだろう。(宮島みつや)