先人に学ぶ人間学塾「戦後最大の古代史の巨星・古田武彦」

古田先生を敬愛される木村さんの発表。
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木村さんは、以前から古田史学の会の世話役もされ、中高生向きに「日出づるところの天子・阿毎多利思北孤(アマタリシホコ)」という本も出されている。
この本については以前の記事でどうぞ↓

亡き古田先生への敬愛と思慕が滲む素晴らしい発表で終了時には割れるような拍手!
要約してご紹介します。

なぜ、古田武彦は古代史の巨星なのか⁉
彼は、過去から今日まで1300余年間、伝えられてきた日本の古代史を
「根底からただした人」である。
古田先生の出された結論とは、
この国は西暦701年までは「倭国」であり、倭国とは九州北部にあった王朝の名前であること。
九州王朝は、662年唐、新羅の連合軍と白村江で戦い完敗してから滅び、
替わって第二の勢力であった近畿天皇家が台頭。
701年「倭国」は消滅、近畿天皇家は「日本国」と称し、唐の則天武后がそれを承認。701年は大宝元年、「大宝律令」も制定され、正式に「日本国」が誕生した。しかし、それ以前の「倭国」九州王朝の存在を学会は認めていない。

日本書紀」「古事記」中心の一元史観だけでは、我が国の古代史は解明できない。多元史観の目を持って歴史を探求すべき、と言い続けた。

*「学問探求は論理の赴く処に行こうではないか。たとえ、それがいかなる処に至ろうとも」(松本深志高校の校長であった岡田甫氏の言葉
認識されていることの再確認」が学問では大切東北大学の村岡先生の言葉)
師の説といえども、な、なずみそ」(本居宣長の精神で挑む。

古田先生は、これらの師の言葉を大切にして研究を実践された。

古田武彦は昭和元年生まれ、昭和46年に「邪馬台国」はなかったー解読された倭人伝の謎」47年に「失われた九州王朝ー天皇家以前の古代史」49年に「盗まれた神話ー記紀の秘密」を刊行。この3部作で評価が定まった。

*「三国志」には、邪馬臺国ではなく、「邪馬国」(←やまいちこく)の記載邪馬臺国はヤマトにあったと思わせたい学者たちがヤマト王朝に通じる語感のヤマタイ国を採用したのでは…?大和にあったと思わせたい学者たちは、「三国志」が「臺」を「」と書き間違えたのだろうと・・。
 「記紀」は、「近畿天皇家王朝一元史観」。
特に古代史は、歴史がまだ混沌としてわからない部分を多く含んでいるだけに、慎重に調査し、議論を重ねなくてはいけないのだが、「一元史観」にこだわり、歴史学会はアイヌ琉球王朝もあった時代に、九州王朝を認めないどころか九州王朝の年号や出来事を、近畿天皇家に都合の良いように見境なく盗り取り込んだ古代史を日本の歴史と定めている
丁寧に調べられた古田先生の説は、歴史学会からは都合が悪いので?当然無視。
古田先生亡き後は、「古田はいなかった、古田説はなかった」ということになっているそうで、これはあんまりひどい・・と思う。
古田説が正しいことを認めると、聖徳太子はいないことになり、大化の改新もなくなってしまうので、これまた認めると大問題にはなるであろう・・。

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さて、古田先生のエピソードで心に残ったことを・・
♥先生は新婚の時に、大学に行きたかったと言われていた奥様に大学に行くように勧めた。二人で受験に向けてがんばり、奥様は見事、京都大学法学部に合格、入学時には子供も生まれて、ママさん学生として、マスコミに取り上げられたそうだ。
(奥様は卒業後は弁護士になられた)
♥夏の暑い日に、アパートの2階で古代史の研究中、大発見をされた先生は半裸のまま外階段を降りて、洗濯中の奥様に「わかった、わかった」と叫びながら報告されたという。
奥様を大切にされた先生、無邪気な少年のような先生のほほえましいエピソード^^。

その他、
「和田家文書」は秋田孝季が東北の歴史を調べ綴った膨大な資料群だが、ぼろぼろになるのを恐れて明治初期に写本した「明治写本」がほとんど。
「明治写本」は和田喜八郎が作った偽物と言われ、騒動になったが、木村さんは膨大な資料を和田喜八郎が作った偽物とはとても思われないと。ただ、一部に無用な書き足しや史実に合わない箇所があるのは事実で、古事記日本書紀同様、フィルターを通して見る必要があるとされた。
★秋田孝季の哲学は好ましく、「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」は諭吉の言葉ではなく、江戸寛政時代の秋田孝季のことばである

★先生の研究、探究心は旺盛で、90歳で亡くなられる日まで衰えることはなかった
 講演を要請されると、周到な準備をされ、それとは別に昨日発見したというようなトレトレの情報の話もされる。木村さんはそのトレトレの探求内容を聞くのがいつも楽しみだったそうだ。

安本美典氏との論争
安本氏は先生の三部作をはじめは絶賛していたが、その後批判する立場になり「和田家文書」偽書説の先鋒者となり、「邪馬壱国はなかった」「虚妄の東北王朝」など皮肉たっぷりの批判文書まで出した。
★しかし、古田先生は自伝の中で「批判や中傷」に対して、これにより研究はさらに深められた。と感謝されている。なぜなら、学者たちから無視される中、安本氏の批判は貴重な存在で、批判は自分の著書に対するリトマス試験紙と見做された

★木村さんは、この発表のために、再度先生の処女作「邪馬台国はなかった」を再読、
すべては壱から始まった・・と。先生が書かれた「」の字を大切にされている。
これは三国志魏志倭人伝の現存する最も古い写本にある「邪馬国」の壹をまねて
古田先生が書かれたもの
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★また古田先生が喜寿になられた時、木村さんが音頭を取って「古田史学、いろは歌留多」を有志で作られた。
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どこまでも先生を信じ、尊敬してやまない木村さんの発表で、私も古田先生への親しみと尊敬を覚えた。三部作は読んでみたい。

先生の研究は非常に丁寧で立派なものであるだけに、学会に無視され続けたことは不遇であった。でも、多くの人を魅了したすばらしい研究はいつの日か、きちんと評価されてほしい。(古代史の認識をただしてほしい)
バチカン(学会)が、ガリレオ(古田)に、目覚めるを待つ
   (木村さんはこれを結びの言葉とされた)

・また、木村さんのように熱心なファンが、先生が亡くなられるまでそばについていたことは幸せなことではなかったかと思う。
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写真は、「日出づるところの天子・阿毎多利思北孤」発刊1周年記念
   文化創造倶楽部 古代史&歴史塾 会員との記念写真(2015・8・25)
    古田先生94歳